"師匠"という存在はやはり特別なのだ・・と、改めて思い知らされる出来事があった。
わたしは未だによく分かっていないが、「いい音」と「そうでない音」との違いを確実に聞き分けて伝えてくれるのが、半年前から師事している師匠・・もとい、ピアノの先生。しかも、それっぽい音・・では首を縦に振らないシビアさに、尊敬と信頼を感じるのであった。
数日前、人生初のミニリサイタルを開いたような開いていないようなわたしだが、いろんな意味で無理を押してのプログラムだったため、必然的にまとわりつく後悔とジレンマに苦しんでいた。
過去に弾いたことのある曲ばかりを集めたにもかかわらず、なぜ弾けないのか——それは、指の怪我や硬直のせいもあるが、半年前から弾き方を習っている最中・・というのっぴきならぬ事情もあった。そんな過渡期に、「人前で曲を弾く」というチャレンジを試みるのがそもそも無謀だが、それでも一度決めたことはやり遂げなければ気が済まないため、出来ないなりに試行錯誤を繰り返しつつ当日を迎えたわけだ。
言わずもがな、二度と振り返りたくないほどの不完全な演奏ではあったが、なんとなく"それっぽい音"や"それっぽい弾き方"で誤魔化すことを覚えたわたしは、「いや待てよ・・もしかすると、これが正しい弾き方なのかもしれない」と、なぜか自信を持つようになっていた。
そもそもピアノの音というのは、物理的にどう打鍵しようが変わりはないはず。よって、心を込めて弾こうが機械的かつ無機質に弾こうが、そんなことで音色に影響が出るとは思えない。
ただし、自分でも分かる「ダメな音」というのは確かにある。前後の音と音が微妙に重なることで生じる"濁り"が、どことなく"だらしなさ"を感じさせるのだ。とはいえ、師匠に指摘されるまではまったく気づかない現象だったが、音階がスッキリ聞こえない時は「3と4の指がなんとなくくっ付いている」というか、引きずるように弾いていたのだ。
このくらいならば、耳をかっぽじって濁りを気にしていれば気づけるが、それ以上の「いい音」についてはわたしの耳では判断できないため、やはり師匠の耳に頼るしかないのである。
とはいえ、"どう弾こうが、そこまで違いがあるとは思えない派"のわたしからすると、「粒のそろった音が出せれば、どう弾いたって同じだろう」と考えてしまうのは当然のことで、結果ありきで音を追求したところ、それっぽい音や弾き方を編み出すことに成功したのである。
(よし、この音が出せれば師匠も喜んでくれるはず・・)
少なくとも、音は濁っていないし「4の指」もクリアに出せている——うん、問題ない。
こうして、ついにたどり着いたかもしれない「いい音」と「いい弾き方」を引っ提げて、師匠の元を訪れたのであった。
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「3と4(の指)が、うまくいってないわねぇ」
開口一番、師匠はこう漏らした。音を聞いた感じはさほど悪くないし、流れるように弾けたはずだが、どうやら彼女の評価は「良くない」だった様子。いったい何がダメだったんだろう——。
「流れにまかせてなんとなく弾く・・ではなく、しっかりと音を出していかないと。少なくとも、今はその練習をしているわけだから」
・・要するに、あっさりと見破られたわけだ。わたしごとき素人の凡人が、付け焼き刃で取り繕った「なんちゃって奏法」などでは、師匠の耳を誤魔化すことはできなかったのだ。
だがじつは、自分自身でも薄々気がついていた。音階やアルペジオの際、流れるように弾こうとすると音と音がつながり濁ってしまうため、あえてスタッカートで切るようにして弾いてみた結果、「濁りのないクリアな音に聞こえる」という技術を身に着けた経緯がある。
そしてこれこそが、師匠の言う「いい音」の出し方に違いない・・という過信に繋がったのだ。
「スタッカートでクリアにする弾き方もあるけど、今はまず指や手首、前腕、肘の感覚を身に着けることが先決。それが出来た上で、どちらの弾き方を選ぶのかはあなたの自由よ」
正直なところ、現時点のわたしにはこの二つの弾き方により発せられた音の違いは分からない。ところが、師匠には明確に違いが分かるのだそう——。
(自分の耳で聞き分けられるようになったら、あとは自分でやっていける。それまではわたしが手を変え品を変え伝えるから・・って言ってたのは、要するにこういうことなのか)
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正しいものを「正しい」と、臆することなく伝えてくれるのが"師匠"という存在なのだろう。はりぼてまがいの即席な完成度ではなく、この先もわたしが一人でピアノを楽しめるように、本物の音を叩き込んでくれているのだから。
だからこそわたしは、表面上の正解ではなく「本質に触れる正しさ」というものを、いつか感じられるようになりたいと願うのであった。
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