引導を渡された先で待つ、残酷で気まぐれな現実

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「指の怪我が治ってから、やりましょうか」

ピアノの先生から引導を渡されたわたしは、「やっぱり」という諦めと同時に、崖から突き落とされたかのような孤独を感じた。痛めている指は右手の人差し指と小指であり、もしかすると骨折(ヒビ)している可能性もある。だが、わたしが上手く弾けないのは"左手"のほうなのだから——。

 

ピアノの曲は、基本的には右手と左手からなる構成だが、単純に"左手のパッセージが上手く弾けない=左手が悪い"とは限らない。右手の不具合につられて左手が足を引っ張られることもあるため、右手を意識することで自然と左手が修正されることもあるのだ。

だが、今のコレはソレではないことくらい、当事者であるわたしが一番よくわかっているし、もちろん先生だって承知しているだろう。そして、かれこれ三か月も練習している曲が、譜読みから一週間の状態と全く変わっていないことは、根本的に何かが間違っている、あるいは足りていないことを暗に示しているわけで。

 

ピアノに限らず、わたしは"言われたことがすぐにできるタイプ"である。無論、すぐにできなくても「これはできるようになる」と感じたことは、近い将来できるようになる。

逆に、「これは無理かも・・」と感じたことは、どんなに努力をしても決してできるようにはならないので、このあたりの"見極め力の信憑性"はかなり高いと自負している。

「それは、メンタルブロックによる思い込みの影響だ!」

と考える者もいるだろうが、それとは違う。できること・・というのは、どれほど微細であってもイメージが浮かぶもの。しかし、どれほど千思万考しようが一ミリもイメージができない場合、それは本質的に不可能であることを示している。

とはいえ、思案を続けるうちにある時パッとイメージが浮かぶパターンもあるので、出だしの時点でイメージできなくても悲観する必要はない。しかしながら、将来的にイメージできるようになるかどうかも、わたしは最初の時点で気づくので取捨選択が早いわけだが。

 

そして、本日引導を渡されたモーツァルトのソナタは、譜読みの時点で「いつか弾けるようになるとは、到底思えない」と、薄々気付いていた。それでも、わたしがピアノを再開した理由はここにあり、"(学生時代に)上手く弾けずに避けてきた曲と、もう一度ちゃんと向き合って克服する"という目標を掲げての挑戦だったため、もしもここで逃げるようなことがあれば、いったい何のためにピアノを始めたんだ・・と後悔の念に駆られるのは必須。

とはいえ、できないものはできないのだ——。あれこれ思慮して試して壊して組み立てて、あらゆる努力を惜しまずつぎ込んだつもりだが、それでも現にできないのだから、あきらめるしかないのでは——。

 

自暴自棄になったわたしは、泣きながら適当にソナタを弾いていた。なぜなら、適当にならばそこそこ弾けるからだ。しかし適当に弾く分、音が抜けたりアーティキュレーションは無視されたりと、あくまで音が出ているだけの演奏となる。それでも、頑張っても弾けないんだから、だったら適当に弾くほうがマシだ——。

 

その時、わたしはとあることに気がついた。"先生の先生"に音の出し方を教わっている最中だが、口酸っぱく言われ続けていることの一つに「すべての関節を引っ張って伸ばして、腕の中が空洞になる感覚をつかみなさい」という難題があった。

これは、イメージはできても実行するのは至難の業で、関節を外すために指がペタッと伸びれば「それではいい音が出ない」と言われ、いい音を出そう・・としっかり鍵盤を押せば「下に押すのではなく、上に向かって・・ぶら上がる感じ」と言われ、イメージの先にある"いい音"を手に入れるために試行錯誤を繰り返す毎日。

それでも、一度たりとも関節を引っ張って伸ばして外す感覚は体感できなかった。だが今、「もしかして、これってそれなんじゃ・・」という感触を、なんとなく味わっているのだ。

 

たしかに、指先から腹の芯まですべての関節が緩やかに離れている気がする。そのせいで、腕の中が大きな空洞のように感じるのだ。

 

——そしてわたしはまた泣いた。

「手に入れたい」と強く願っても、なかなか掴むことのできない事ばかりだが、それでもふとした瞬間にスルッと手の中に滑り込んでくるのが、この世の面白いところなのかもしれない。

せっかく諦められると思ったのに、ようやく悔いなく捨て去れると思ったのに、ピアノがわたしを離してくれなかったのだ。

 

 

どうしようもないクズ男なのに、どうして手を切れないのか・・と嘆く哀れなオンナの気持ちが、ちょっとだけ分かった気がした。

 

Illustrated by 希鳳

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