「先生の先生」の弟子になった話

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なにかを始めるのに「遅すぎる」ということはない・・と、改めて実感した。無論、"なにかの入り口"を知るのが早ければ、その分だけより深く掘り下げる時間が手に入るのは確かだが。

よって、もっとも重要なのは「スタートを切れるかどうか」のほうなのだ。

だからこそ、明日死ぬ運命だとしても、今日、入り口にたどり着けたのならば幸せである。一歩も踏み出すことなくこの世を去るよりも、一歩踏み出してから死ねたのならば本望——そんなことを、改めて確信したのだった。

 

わたしにはピアノの先生がいるが、その人にもまた「先生」がいる。そして今日、「先生の先生」の元を訪れたわたしは、当たり前だがその人にもさらに先生がいたことを知った。

見た目は若いが、70歳を超えている「先生の先生」はこう語ってくれた。

「私にとってのピアノは、一生かかっても終わらないもの。残念ながら、この短い人生の間でどうにかなるほど、単純なものではないから」

 

幼少期にピアノを始めてから70歳を超えるまで、ずっとピアノに触れて音楽を追求してきた彼女でさえ、この人生では短すぎると断言するほど、芸術というのは奥が深いものなのだ。

さらに、30歳あたりで奏法についての革新的な出会いがあったのだそう。「ある程度は弾ききったし、ピアノを辞めてもいいんじゃないか・・」と思っていたところ、海外でピアノを学び指導してきた女性(後に師となる)の帰国を機に、新たな弾き方・・というか音の出し方を学ぶこととなったのだそう。

そこから、「先生の先生」のピアノの旅・第二章が始まったというわけだ。

 

さらに彼女はこう続けた。

「やったこともない踊りや、造詣が深いわけでもない絵画を見ても『きっとこういうことなんだろうな』・・って、自分では再現できないけれど理解ができるようになったのは、今の音色を出せるようになってからね」

その感覚は、わたしにも近いものがある。たとえば、これまでに経験してきたスポーツ・・柔術や射撃がそれにあたるだろう。

 

もしも、柔術の技を一つしか知らないオリンピアンと、百の技を知っている柔術家とが手合わせしたならば、競技の特性上からも柔術家が負けることはない。それと同じで、知識と経験の引き出しが多ければ多いほど、表情豊かでバラエティーに富んだピアノ演奏ができるのだ。

さらにクレー射撃ならば、スタンバイしている射手が予告なく放出されるターゲットを狙撃するわけで、それは"静止しているピアノの鍵盤を叩いて音を出す瞬間"と似ている。最初の音を出すときの緊張感は、クレーが飛び出す瞬間に銃を構える"初動"と似ているからだ。あぁ、考えるだけでストレスが・・。

 

だが、これらの感覚をピアノに落とし込むことができないわたしは、ひたすら暗闇をさまよっていた。どれほど歩き回ってもヒントにたどり着くことのできないわたしは、ピアノの先生にそんな現状を打ち明けたところ、「先生の先生」を紹介してもらう流れとなったのだ。

そして今日、「四つの音だけを出す練習」を習ったわたし。今のメンタルでは、もはや楽曲を弾くことなどできないほどに自信喪失していたため、ただただ音を出す・・という作業に救われた気分だった。

ちなみに、音を出す行為は指で行うわけではない。足の裏から腰を通じて指先まで繋がったエネルギーは、まるで水道の蛇口から水が出るかのように、指先から鍵盤へとあふれ出すもの。そのためには、体内で打鍵の準備を整える必要があるわけだが、そんな感覚の一端に触れることのできたわたしは、真っ暗闇の遠くのほうに、小さな光の点を見つけた気持ちになったのである。

 

「私にとって、あなたが最後のお弟子さんになるでしょう。そして今になって思うけど、これ(ピアノ奏法)を伝えていくことが、私の人生ですべきことなんじゃないか・・ってね」

わたしの先生は、「先生の先生」からピアノを習っている。そして「先生の先生」もまた、海外で学んできた先生から習っている。もちろん、その先生にもまた先生がいるわけで、ずーっとさかのぼればモーツァルトやバッハにたどり着くのかもしれない。

想像もつかない長い時を経て、今のところ"最後の伝承者"がわたし・・というわけだが、「先生の先生」が与えてくれる道しるべを辿りながら、わたしも目一杯人生を費やして、ピアノと向き合っていこうと思うのであった。

 

それにしても、「先生の先生」が弾いてくれたモーツァルトのソナタは、わたしが弾くそれとはまるで別物だった。同じ楽器を使ったとは思えないほどの圧倒的な音色の差があったし、ピアノという楽器はこんな音がするんだ・・と、こちらが驚かされるほど鮮やかで正しい音が響いていた。

——わたしもいつか、あんな音が出せるようになりたいな。

 

Illustrated by 希鳳

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