先生はなぜ、レッスンのたびに違うことを言うのか

Pocket

 

その動作や行為ができないことについて、結果的に「できていない」のは事実だとしても、そもそも「(物理的に)できない」のか、それとも「(やり方が分からないから)できない」のかでは、大きな違いがある。

そして後者の場合、やり方を教えてくれる指導者との相性が重要となる。この場合の"相性"というのは、気が合う合わないの話ではなく、指導の際に使う言葉や表現が生徒に浸透するか否かの相性である。

 

とどのつまりは、マニュアル通りの杓子定規な説明ではなく、相手が十分理解できる言葉選びのセンスの有無こそが、よき指導者の定義なのではないかと思うわけで。

 

 

わたしが"先生の先生"にピアノを習い始めて、およそ一か月半が経過した。数日に一回のペースでレッスンに通っているが、これにはワケがある。

「間違った方向に進まないように、こまめにチェックさせてほしいの」

・・ということで、とんでもない方向に行かないように数日に一回チェックしてもらっているわけだ。

 

しかしながら、先生は言うことが毎回違う。前々回は「肘や手首を使わずに、指でしっかりと鍵盤を捉えなさい」と言ったのに、前回は「指からではなく、肘から始動するように」と言うし、かと思えば今日は「肘で故意に引っ張るのではなく、体の内部から溢れ出るエネルギーを自然に放出する感じで」などと言うではないか。

だがこれは、冷静に考えると"成長の証"なのだ。最終形・・すなわち"指や腕・肩といった、関節を使った動きで弾くのではなく、下半身から込み上げるエネルギーを指先から放出する感じ"を習得するにあたり、しょっぱなから脱力しろだの腹の底に力を入れろだの言われても、当然ながらできっこない。だからこそ、段階を踏んで最終形に近づけていくのである。

そして生徒であるわたしは、数日に一度、前回とは違う先生の指示に従って、前回とは違う弾き方に挑むのであった。

 

ちなみにわたしは、今習っている奏法(弾き方)について、「できない」と言ったことは一度もない。無論、言われてすぐにできる場合もあれば、持ち帰って何度か弾くうちにできるようになる場合もあるのだが、とにかくその場でできなかったとしても、なんとかして「できる方法を探り当てること」が、わたしに課せられた役割だと考えているからだ。

その根底には、先生に対する絶対的な信頼がある。素人のわたしからすると、それが美しい音なのかどうかは分からないが、先生が一音ずつ確認をして「今のは良い音だ」「今の人差し指は間違っている」という具合に正誤判断をしてくれるので、それに沿って"いい音"を増やす作業を繰り返しているわけだ。

 

ピアノにおける"いい音"というのは、なんとなくそんな感じがする・・というわけではなく、明らかにいい音だと分かる。だからこそ、音の判断できるようになると、ダメな弾き方をしたときの落差というか「やっちまった感」は大きい。

願わくばすべての音を"いい音"にするべく、細心の注意を払って鍵盤と向き合わなければならないのだが、単音ではなく曲を弾くとなると曲調にも気を取られるため、結果的に"いい音"が減ってしまったりもする。

・・というわけで、なかなか上手くはいかないものだが、それでも正しい方向へと導いてくれるメンターがいるからこそ、手放しでついていくいくことができるのだ。

 

「湖の岸にとまる舟に乗っているとして、岸をツンっと押して湖の真ん中へ押しやる感じで弾いてみて」

——最初にこう言われた時、わたしは目を閉じて湖の岸辺に止まる小舟をイメージした。そして、岸に手を伸ばしてツンっと押してみた。小舟は湖の真ん中へと向かって、少しだけ移動した——。

「そう!その指の使い方を忘れないで」

果たして、この表現が正しく伝わる生徒がどのくらいいるのかは不明だが、少なくともわたしにはドンピシャで伝わった。もちろん、物理的な弾き方を教わったわけではなく、概念というかイメージを指で再現しただけだが、その動作から生まれる音こそが"いい音"なのだ・・ということを、最短ルートで伝えてくれたのである。

 

さらに、"いい音"以外の音については一切の妥協を許さないため、手を変え品を変え・・いや、言葉を変え表現を変えてあれこれボールを投げる先生。おまけに、数ある球のうちどれが当たるのかは、投げてみなければ分からない。だが、目指すべき方角へ向くまでは、歩幅を抑えてでも確実に舵取りをする手腕には、申し訳なさよりも驚きが勝るわけで。

もしもわたしが先生の放つ表現に理解を示さなかったら、この弾き方を習得することは無理だろう。しかし幸いにも、先生とわたしの脳は比較的近いレベルで通じ合うことができた。そしてこれこそが、わたしが"強運の持ち主"たる所以なのである。

 

 

少なくとも先月半ばまで、わたしには"いい音"は出せなかったし聞こえなかった。そして、自分には無理だとも思っていた。だが今、いつの間にか"いい音"に近づきつつあるわけで、これはつまり「できない」のではなく「知らなかった」だけなのだと思い知らされたのだ。

自分のことは己が一番理解している・・と思いがちだが、実際には師匠や先輩のほうがよく見えている場合もある。だからこそ、今できない動作や行為は、物理的にできないことなのか、それとも知らないからできないことなのか、どちらなのかを見極めることができたら、きっと未来は変わるだろう。

 

llustrated by おおとりのぞみ

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です