付け焼き刃というか一夜漬けというか、そういう類の便利な手法が通用しないのが、ピアノである。
毎週火曜日はピアノレッスンの日だが、なんだかんだで練習をサボるわたしは、毎週日曜日になると焦る。
どうせ毎週同じことの繰り返しなんだから、いい加減に金曜日あたりで気づけばいいのだが、なぜか懲りずに日曜日の夜中に焦り出すのである。
ではどのように一週間を過ごしているのかというと、まず火曜日にレッスンが終わりホッとする。水曜日は「昨日レッスンだったから、今日はチートデイということで」といってサボる。木曜日は「あと5日あるから、急ぐ必要はない」と自分自身に言い聞かせ、金曜日は「週末、みっちり練習しよう」となる。
こうして迎えた土曜日は「仕事やらなんやらを今日中に片付けて、明日はピアノの練習に充てよう」ということで、めでたく日曜日を迎えるのであった。
とはいえ日曜日に用事があれば、それはもう気が気じゃない。
食事の予定が入れば、ピアノのことが気掛かりで食べ物に集中できない・・・なんてことはなく、遅くまで楽しくワイワイ食事を満喫しながら、時が過ぎるのを忘れるのである。
こうして日曜日の深夜、色々とやるべきことを抱えた状態で優先順位をつけるわけだが、どうしても「他人が絡むことを先に済ませなければ、気が済まないタチ」ゆえに、気づけば外は白んでいるのだった。
(こんな状態で練習したところで身にならない。朝起きたら、死に物狂いで練習しよう・・)
そして月曜日がスタートするわけだが、当然ながら、役所や会社も月曜日に始動するため、予想以上に仕事の対応に追われることくらい、容易に想像がつく。
だが時間は待ってくれない。明日は火曜日、レッスンの日。今日やらなければ、待っているのは地獄である――。
こうしてわたしは仕事の合間にピアノの前へ座り、黙々と譜読みをするのだった。
「譜読みをする」ということは、いま初めて楽譜を開いたことを意味する。
鍵盤を叩かなくても、せめて楽譜くらいさらっておけば多少は楽になるものを、それすらも怠った罪が重くのしかかる。ダメだ、全然間に合わない――。
ピアノに限らず運動や勉強でも、「サボった重み」というのは自分自身がもっとも感じるものである。体が重い、スタミナが持たない、前の課題が終わっていないのに新たな課題が出てしまった、などなど。
しかしこれらは所詮、「自分自身」に返ってくるだけで、他人にはバレない可能性が高い。むしろ、サボらなかったからといてコンスタントに成長していくとは限らないからこそ、本人以外に知る術もないのだ。
ところがピアノのレッスンは違う。
先生がわざわざ「練習してこなかったわね」などと、とどめを刺すことはない。あくまで大人の趣味であり、ゆるく弾いているだけのピアノに対して、そんな辛辣な発言をしようものなら生徒は逃げてしまうからだ。
だが内心、確実に「こいつ、練習してこなかったな」と分かっている。なぜなら、雑談の一環で他の生徒たちの様子を聞いたことがあるからだ。
「いいのよ、たくさん練習しなくても。みんな練習なんてしてこないから」
なかには、レッスン当日に一週間ぶりに楽譜を開く強者がいたり、ピアノを弾かずにおしゃべりだけで帰っていく生徒もいたりするらしい。
(どんだけ金持ちなんだ・・・まぁ、大人の趣味だからそれもアリなのか)
貧乏人からすると信じられない光景だが、ゆとりある人生を享受する人々が多いのだろう。
底辺を支える側からすると、
「少なからず月謝を払っているわけで、次回のレッスンまでに先へ進んでいなければ損をする。ホストクラブじゃあるまいし、先生とおしゃべりをするために月謝を払っているわけじゃない。少しでもピアノの技術や表現力を上げてもらうべく、先週よりも前へ進んでいなければもったいないだろう!」
という気持ちしかないわけで。
ではなぜ、これほどまでに殊勝な心掛けを持ちながらも、レッスン前日の月曜日まで練習をしないのか。
――こればかりは、わたしにも分からない。まったくの謎である。
*
こうしてめでたくレッスンを終えたわたし。その出来栄えを例えるならば、「スケートリンクに初めて降り立った子どもの滑り」とでも言おうか。
ツルツルの氷にビビり、ちょっと手を離せばすってんころりんと尻もちをつく始末。それでもなんとか一周しようと、四つん這いになって氷を這っている姿とシンクロする。
それはもはやスケートではない、ただのハイハイだ。
(今週こそは、毎日練習するぞ・・・)
こうしてまた、一週間が過ぎるのである。
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