六年目、1827日目の一歩目

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このブログにて”微妙なコラム”を投稿し続けたところ、今日で六年目を迎えた。日数にして1,827日、何があろうと一日も欠かすことなく書き続けたことに、我ながら驚きを隠せない反面、後悔に似た感情を抱いている。

本来、ゼロから作り出すようなクリエイティブな作業は、当たり前だがクオリティが優先されるべきなので、ただ単に”創作と発信を続ける”という部分に価値があるわけではない。にもかかわらず、「とりあえず今日も書けたから」という理由だけで、五年間の長きにわたり文章をこの世に生み落としてきたのは、ある意味誤算でもあった。

40度の高熱にうなされた時も、時差の激しい国へ渡航した際も、愛犬・乙がこの世を去った日も・・自分自身に何が起きようが、その事実を超越して毎日毎日タイピングを続けてきたわけで、そこにまともな精神状態は存在しない。時には、書くことが思い浮かばず必死に脳みそを回転させた結果、息をするのを忘れて過呼吸になったり、毎日書き続けることだけが自分にとっての誇りであり価値であるのに、それを途切れさせることへの恐怖で死が頭をよぎったりと、たかが”ブログを書く”という作業ごときに、自身の精神を崩壊させるほどの負荷をかけてきたのだから。

 

こうなると、「やめ時」のハードルがグングン上がってしまうのは言うまでもない。だったら、あの時無理をせず一日穴をあければよかった——と、連続記録を更新し続けることに後悔の念を抱くことも多々ある。

しかも、この世に「作品」としてコラムを生み出すならば、最低限の質とボリュームを保たなければならないため、日々の出来事を日記がわりに書き綴るのならば、あえてインターネットという大海原へ放出する必要などない。言い換えると、誰かの目に留まる目的で小舟を進水させるのであれば、それは自分のためではなく他人のために行うべきだ・・という信念があるのだ。

無論、「稚拙で内容の薄い、単なる文字の羅列じゃないか!」と言われればそれまでだが、それでもなんとか形にするべく尽力してきた結果、千八百本を超える大量なコラムの山が出来上がったわけだ。

(いや待てよ。コラムという小舟をインターネットの海へ進水させたのだから、大量の小波がざわめいている・・というべきか?)

 

いずれにせよ、明日のことは誰にも分からない。この勢いで七年目を目指したいと願っても、何らかの事件に巻き込まれて断念せざるを得ないかもしれないし、それ以前にわたしの命が尽きるかもしれない。だからこそ、自分ではどうにもできない未来を憂う前に、目の前の今をきっちり踏みしめようと思うのだ。

いかんせん「思うこと」は簡単である。脳内で自由にイメージを膨らませて、良くも悪くもいろいろな思いを巡らせることができるわけで。だが、それを文字に起こさなければならないとなると、その漠然としたイメージに明確なカタチを与えなければならない。さらに、語呂や語感といった”耳で感じる要素”も付け加える必要があるため、文章を書き上げてからの成型——発酵後のパン生地を丸めたり伸ばしたりして、焼く前の最終形にするかのように——が、非常に手強い作業となる。

このような工程を経て、脳内のイメージを文字として体内から産み落とすまでに、およそ三時間を要する。当然ながら、イメージすら浮かばないときはこれだけでは済まないが、さすがに毎日5年も続けていれば、ちょっとしたコツや逃げ道を作る術を身に着けるため、どうにかこうにか凌ぐことができるようになるのだが。

 

だからこそ「先を見る余裕」などわたしにはない。ご覧の通り、目の前の一歩を踏みしめることで精一杯なのだ。

 

 

最後に、文章生成AIとのかかわりについてだが、少なくともわたしが彼ら・彼女らと肩を並べる日は来ないと断言できる。なぜなら、これまでに何度かAIにコラムを書かせてみたが、どのような条件や設定を与えても、面白い作品が出来上がった試しがないからだ。

どのあたりが面白くないのかというと、ただ一つ、「どこにもリアルが存在しない」という二次元かつ無機質なテクスチャーが、三次元を生きるわたしにとっては面白く感じられない点である。

 

人間が心を揺さぶられる時——笑いでも怒りでも悲しみでもなんでもいいのだが、そこにはある種の”湿った感情”がある。じめっとしているかもしれないし、べたべたしているかもしれない。いずれにせよ、何らかのウェットな手触りとともに感情が動くのだ。

ちなみにそれは、生きているからこそ触れられる感覚ともいえる。失敗も成功も、生き物が出した結果だからこそ感情が付随するわけで、機械が同じ結果を出したところで感動もクソもない。

 

改めて、わたしが生み出すコラムはすべてリアルでできている。聞いたことのない嘘のような話や、疑いたくなるような怪しい内容の記事だったとしても、残念ながらすべて現実に起きたリアルな出来事なのだ。

そして、どんなにちっぽけで意味のない一滴だったとしても、実体験を文字にできるのは人間が持つ特権である反面、AIには「実際に体験をすることができない」という特徴がある。加えて、実体験で感情が揺さぶられるのは、いつだって「失敗したこと」なのだ。それはやはり、われわれが手探りを続ける不完全で未熟な生き物だからだろう。

 

わたしには失敗を含めたリアルがある——たったこれだけの事実が、文章生成AIの追随を許さない絶対的な真実だと、胸を張って断言しよう。

 

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