相手を変えることはできない。だからこそ、自分が変わるしかない——。
これは、対人関係における通説というか処世訓の一つだが、相手となんらかの摩擦が生じている場合、いかに自分の考えが正しいとしても、それを貫けば互いの溝は深まるばかり。それでも相手との関係性を維持したいならば、自分自身が何かを変えなければならない。
手っ取り早いのは「相手との距離をとる」ことだが、同じ会社やコミュニティに属していると、なかなかそうもいかない。嫌でも顔を合わせたり会話をしたりしなければならないため、ストレスは募る一方で・・。
ちなみに、相手に振り回されたり心をかき乱されたりする状態は、相手が悪いのではなく自分に問題がある。自分自身が石臼のようにどすんと構えていられれば、相手の態度や攻撃などその辺を飛び回るハエのようなもの。無論、そこまで単純かつ軽微なことではないにせよ、ハエに気を取られて石臼が転がるようでは話にならない。
要するに、自分という絶対的な主観があって、相手という相対的な客観がある——この大原則が維持できれば、相手に翻弄されることはないのである。
わたしは昨日、一つの決断を下した・・なんて言うとかっこよく聞こえるが、自分の器に収まりきらないものを無理やり詰め込んだところで、結局はこぼれ出てしまう。よって、無理をしてまで相手に合わせることは止めよう・・と決めた。
もちろん、いくらでも相手に合わせることはできるが、それをすることで自分自身が疲弊するくらいならば止めたほうがいい。いかんせん、そんなに長くはない人生において、できれば摩擦や軋轢は少ない状態で過ごしたいわけで。
とはいえ、その相手が自分にとって必要不可欠であれば何が何でもで喰らいつくだろう。だが、それでもこちらを向かない相手に対して何かを押し付けるのは、無駄であるだけでなく心が疲弊するリスクがある。だからこそ、「自分」というぶれない器の範疇で関係性を維持するのが健全なのだ。
これは特定の相手だけでなく、SNSなど不特定多数が生み出す”流行り廃り”にもいえることで、時代の流れに乗るのは悪くないが、そこに「自分」があるかどうかが重要。
そのいい例が、嘘やデマのようなフェイクニュースに振り回される人々だ。彼ら・・というか我々に「自分」という絶対的な主観があってこそ、それらの信ぴょう性について判断できるわけで、ショッキングなタイトルやキャッチーなサムネに釣られて、余計な疑いや不安を抱くのは愚かであり滑稽としか言いようがない。
どんな時でも、自分が持つ器——あわよくば花崗(かこう)岩でできた立派な石臼が理想——の中で、煮るなり焼くなりするのがフェイクニュースの正しい楽しみ方。それを、食材に踊らされて調理もできないようでは、胃袋へ流し込んだところで消化不良となるだけなのだ。
・・というわけで、対人関係に悩む者は今一度、自分自身の「器」について見直すことをお勧めする。「相手と距離をとること」や「相手との関わり方を改めること」は、いずれも重要な対策であるのは間違いない。だが、そもそも自分自身の器が強固な石臼でなければ、蹴れば転がるし叩けば割れてしまうのだ。
どうでもいい赤の他人に翻弄されるくらいならば、己の石臼を頑丈な花崗岩に近づける努力をすべき。言い方は悪いが、「逃げるのは簡単」——。だからこそ、その前にできること・・しかも、直接的な影響を及ぼす「何か」に尽力することで、環境も関係性も変わらずとも、自分自身の気持ちが変わるのだから。
*
・・以上、石臼からのお知らせでした。
コメントを残す