「アスリートは聖人君子」という悲劇

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アスリートの不祥事は、芸能人や政治家のソレと比べてセンセーショナルで罪深く聞こえる。

 

一般人であれば衆目に晒されることもなく、当事者間で鎮火できることも、著名人となるとメディアが放っておかない。

ましてや、その業界における ”シンボル“ 的な位置づけの人間であればなおさら、事実は面白おかしく歪曲して報道される。

 

聖人君子など、この世に存在しない。

 

その偶像を作り上げることで利益をあげようとする商売人によって、やり玉にあげられた人間は悲劇に向かって歩まされる。

 

聖人君子の皮をかぶせられた人間は、本来の自分を失うことになる。

自分がこうしたい、ではなく、他人がどうしてほしいか、によってすべての行動や言動が決まるからだ。

 

聖人君子は、利他的であることを求められる。

 

 

もう一人の自分を創造することは、ときに自分を助けることがある。

 

たとえば仕事で、

「私はこんな仕事したくない」

と思ったとき。

 

それでも、そういう「役を演じる」と思えば、やりたくない仕事もこなすことができる。

 

さらに、

「そんなこと恥ずかしくてできない」

と思っても、もう一人の自分が演じるのだと念じれば割り切ることもできる。

 

ただしこの役割分担は、あくまで自分が決めるものであり、他人が決めるものではない

 

他人が決めた自分を演じ始めると、これもやはり、破滅へと向かうことになるだろう。

 

 

私の個人的な考えだが、誰もがオールマイティーな”ゼネラリスト”である必要はない。

 

その人を判断するときに、

「●●さんはあれはできるけど、これができないからダメだよね」

こんな意見を聞くことがある。

 

いや、大概の人がこのように良い部分と悪い部分をミックスして、その結果「悪い」ほうが勝る結論を出す

 

 

殊に仕事に関していえば、スペシャリストの寄せ集めでプロジェクトを進めたほうが、レベルの高い完成品ができる。

 

社交性のないシステムエンジニアは、システム開発に没頭してくれればいい。

社交性のある私が外面よく営業活動をしよう。

その代わり、使い勝手の良い完璧なシステムを構築してもらいたい。

 

数字に弱い企画開発は、企画開発に没頭してくれればいい。

数字に強い経営管理を調達してこよう。

その代わり、他の追随を許さない魅力的な企画を提案してもらいたい。

 

木を見て森を見ずの逆で、人が持つ局所的な能力を評価することが効率化につながることもある。

 

 

人間は一つの体にいくつもの要素を蓄えている。

 

どれか一つが欠けたら、その人は「失格」なのだろうか。

 

なぜそこまで「聖人君子」を創り出す必要があるのだろうか。

 

 

ずば抜けた能力のせいで、息苦しい人生を歩まされ心身ともに疲弊した人間がいるとしよう。

命を絶とうか、それとも破滅に向かう不正に手を染めようか、そんな境地に立たされたとしたら。

 

”命を絶つほうが美しい” と密かに思っている、無責任な傍観者はいないだろうか。

 

なかでも「特にずば抜けた能力」を持っていると、とにかく完璧な人間であることを強要される。

 

誰が見ても「あの人はすばらしい」と言われるような姿勢、発言、行動、生き方。

 

凡人には決して、決して理解できず、たどり着くことすらできない境地がある。

その境地に立つ者だけが感じる「絶望」がある。

 

その逃げ道が「死」と「不正(破滅)」しかないとしたら、どちらを選ぶのが正解なのか。

 

 

本当の自分と、

聖人君子の自分と、

両立できる人間がいればそれは素晴らしい。

 

しかし現実的には、いない。

 

 

我々凡人が求める理想や妄想は、自分たちの中だけで膨らませて楽しむべきではないだろうか。

 

なぜなら、人間はそこまで万能ではないから。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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