ショパンと師匠(柔術の)の話

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 「筋肉がすごいですね!どんなトレーニングをされてるんですか?」

立派なホールで最高級のピアノを弾かせてもらう機会に恵まれたわたしは、ユニクロの夏用ワンピースをまとって会場をウロウロしていた。

両肩がガッツリ剝き出しになるデザインなのだが、他にステージ衣装になりそうな服を持っていないため、やむを得ずこのワンピースにしたのだが・・いやいや、一般人ならばこのようなエクスキューズは不要だろう!なんせ天下のユニクロで千円台で購入したのだから、それはすなわち多くの庶民が買い漁った商品であり、「あー、私もそれ持ってる!」的なかぶりがあってもまったく不思議ではない。

そのくらい、特別に奇抜なわけでも布面積が少ないわけでもないワンピースなのに、会場内で声をかけてくれた人々は全員、口をそろえて腕の太さや首の丈夫さを誉めてくれるのだ。

 

「あぁ、ブラジリアン柔術をやってるから・・」

幾度となくこのやり取りを繰り返してきたわたしは、もはや無表情でこのような返事をするのだが、続きは決まって「えー、すごい!最近流行ってるやつですよね?」とか「えー、カッコいい!でも私には無理だなぁ」といった回答につながる。

これがもし、ピアノ以外の出会いであれば喜んで柔術を進めるのだが、さすがにピアノを嗜んでいる者——しかも、ある程度本気で打ち込んでいる者に対して、柔術を進めることは断じてできない。それはわたし自身が身をもって痛感している、最大の障壁あるいは絶望に直結するからだ。

 

柔術家の指を見れば一目瞭然だが、指は節くれだってゴツゴツしているし、指先が変形してあらぬ方向へ曲がっている者もいる。かくいうわたしも、ちゃんとグーが握れなくなったり、小指が内側へ流れてしまったりと、指で鍵盤を操作するピアノという競技において致命的な欠陥を背負っている。

そして皮肉にも、影響が出るのは百パーセント「ピアノ」のほうであり、健全な指を確保したいのであれば柔術などやるべきではない——かつて、決死の思いでステージに上がったことがあるが、あの時、わたしの中指は折れていた。

 

そんなわけで、柔術をやりながら「ピアノを習ってみたい」というレベルならば喜んでピアノを勧めるが、真剣にピアノに取り組んでいる者が興味本位に柔術へ足を突っ込むこと・・それはすなわちピアノの自由を失う未来を意味するので、わたしの口から肯定的な発言が出ることはない。

とはいうものの、じつはこのワタクシ・・ピアノより先に柔術を始めていたのである!

柔術を初めて二年目くらいだろうか、体の硬いわたしは「この動きは自分にはできない」といって、ボトムの攻防を避けていたのだが、ある時「これでは柔術にならない」と気がついた。それと同時に、「そういえば、得意な曲ばかり弾いて苦手なジャンルを避けてきたのは、ピアノも同じだったな・・」と、思い出したくもない過去を思い出したのだ。

 

(逃げるばかりの人生でいいのか?)

 

一度きりの人生であるにもかかわらず、苦手なものから逃げて失敗や苦労を回避し、安全に体よく最短ルートで終わらせることで、後悔はないのだろうか。

傍から見れば「成功と栄光の一生」に映るかもしれないが、他人の評価など一ミリも求めていないのであれば、取り戻せない過去の続きを今から始めるべきなのでは——。

 

こうしてわたしは、学生時代に終わらせたはずのピアノを再開したのである。

 

 

ピアノの師匠やピアニストの知人から強く勧められていた本がある。その名も「弟子から見たショパン」というもので、ショパンの奏法や技法に関する弟子や近しい友人らの発言を集めた分厚い一冊なのだが、発表会でショパンを弾くという経緯もあり、満を持して購入したのだ。

そして、「第一部 技法と様式」の一ページ目で、ショパンという指導者が心がけていた考え方を読んだわたしは、ピアノと同時に柔術を思い出した。

「(前略)芸術は無限であっても手段は限られているのだから、それを教える場合にも、この限られた手段によっていかに無限なものを表現するかを考えなければならない。(中略)例えば散歩するために、逆立ちして歩くのを習うようなものだ。そのあげく、逆立ちはおろか、まともに歩くことさえできなくなってしまう。これでは厳密な意味での音楽も弾けはしない——練習におけるこのような難しさは良い音楽、巨匠の音楽の難しさとは別のものだ。それは実質を欠いた難しさであり、新種のアクロバットなのである。(後略)」

~弟子から見たショパンp.45より部分抜粋~

派手で見栄えのあるカッコいいテクニックばかりを追究したところで、それはアクロバットでしかない・・というのは、現に柔術の練習で目にする光景である。

 

さらに読み進めていくと、このような発言にぶつかった。

「ショパンのpiano(弱音で弾くこと)は人の息づかいそのものなので、強烈なforte(強音で弾くこと)などなくても、コントラストは思いのままにできてしまう。(後略) モシュレス」

「(前略)彼のforteはあくまで相対的なもので、絶対的なものではない。常にcrescendo(だんだん大きく)とdiminuendo(徐々に弱く)の線上を揺れ動く、あの微妙なpianoやpianissimo(極めて弱く)との兼ね合いがあるからだ。 ヒプキンズ」

「ショパンで感心するのは無限に伸び広がる響きの魅力なのです。彼のdecrescendo(だんだん小さく)は、全体から見ても細部を取りあげてもうっとりしてしまうほど美しいものですが、実践するのにこれほど難しいこともありません。 グレッチ/グレヴィンク」

~弟子から見たショパンp.87より抜粋~

——あぁ、そういうことだったのか。

 

わたしは昨年の終わりごろから、練習前の30分ほどを使って「基礎ムーブの特訓」を受けている。あまりに無様でドタバタした動きを見るに見かねた師匠が、柔術のテクニック以前に「身体の使い方」を一から叩き込んでくれているのだ。

言葉にすると単純ではあるが、「指先や身体の隅々まで、意識的に動かすことができるか?」と問われれば、じつは難しいことに気が付くだろう。無論、感覚の優れた者や柔軟性の高い者などは、何も考えずともそのような”全身を使った動き”ができる。だが、わたしのように感覚が鈍く体が硬い者にとっては、「手を伸ばすこと」すらうまくできないのである。

「こう・・ですか?」

「違います」

「じゃあ・・こうですか?」

「ぜんぜん違います」

もはや意地の悪い先輩にいびられている気分なのだが、師匠が思う動きとわたしのそれとが違っていることだけは理解できる——とにかく、繰り返し続けるしかない。もしも一ミリでも変われば、それこそラッキーだ。

 

こうして、大きな変化は見られないにせよ、いつの間にか「今までよりも動きやすい」と感じるようになったわたしは、徐々に師匠が言いたかったことに近づいている気がした。

——体の隅々まで余すところなく使い切る。動きはしなやかかつ滑らかに、それでいて緩急のある流れるようなムーブであること——これはまるで、ショパンが弟子たちに伝えていたことと同じではないか!!(実際のところ、わが師匠が弟子だった時代に、彼の師匠から受け継いだ感覚なので、「弟子からみた師匠」という観点では師匠の師匠がショパンとなるわけだが)

 

ピアノにとっての醍醐味は、ビックリするような大音量ではなく「いかに弱音のレンジを広げるか」にある。

これは、優秀な弾き手が例外なく実践していることだが、鍵盤の扱い方が上手くなければ小さな音や微かな響きをコントロールすることはできない。最初から最後までガンガンと突貫工事を繰り広げたのでは、弾いている側は気分がいいかもしれないが、聞かされている側にとったら苦痛以外のなにものでもないだろう。

やはり、誰かへ向けて音楽を伝えるのであれば、聞いていて気持ちのいい演奏(弾き手の想いが伝わる演奏)でなければならない——人前で弾くというのは、そういうことだからだ。

 

柔術も同じで、テクニックだけを身に着けたとしても、それを使いこなすための体がなければ”豚に真珠”といえる。

さらに、「今の自分にできる精一杯」というのは、穿った見方をすると「できないことから目を背けている」という場合がある。今の自分のその先に、新しい自分はいないのか——。

 

主観的な自分ではなく、客観的な自分を映してくれる(教えてくれる)のが師匠という存在なのだが、まさか音楽家であるショパンと柔術の師匠が同じ世界観を抱いていたことには驚きを隠せない。とはいえ、これはピアノや柔術に限った話ではなく、あらゆる事象に同様のことが当てはまると思う。

どんなことでも小手先の技術や目先の思考では限界がくる。だが、脳内にある神経の隅々から手足の指先まで、すべてに意識を通わせることができたならば、それはきっと面白くて仕方がない「幸せな瞬間」になるに違いない。

その状態でピアノを弾くことが、柔術に取り組むことができたならば、それこそがわたしの目指すゴールなのかもしれない——いや、そこからがスタートになるのだろう。

 

 

ヒントや発見というのは、ひょんなことから手に入るものなのである。

 

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