「本番」で露呈する「意味のない練習」の恐ろしさ

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意味のない練習というのは、意味のある本番で初めて露呈するものだ——URABE

 

 

極度の面倒くさがりで有名なわたしは、ピアノの練習中にアニメを見るクセがある。

なぜそのようなことをするのかというと、断じて「ピアノの練習がつまらない」という理由からではない。では、一体なぜピアノを弾きながらアニメを見ているのか・・というと、なんともくだらない理由が自己分析により導き出された。

 

最大の理由は、「アニメを見る時間がもったいないから」というものだ。アニメ好きなのに、それを見る時間がもったいない・・?!という矛盾はあるが、これにはちょっとした事情がある。

アニメはたしかに面白い。だが、アニメを見るためだけに時間を作るほど特別なものではない。そのため、ご飯を食べながらやコーヒーを飲みながら、はたまた半身浴をしながら、さらには外出時の移動中にアニメを見るのが日課となっている。

とはいえ、さすがに仕事中はアニメを見ないので、在宅作業が一日続くとアニメのタイミングがほぼやってこない。それでも「どこかでアニメ時間を捻出しよう」と粘った結果、ピアノの練習中に楽譜の横へスマホを置いてアニメを流す・・という二刀流が誕生したわけだ。

 

このやり方が良くないことくらい、誰に言われずとも分かっている。ヒトの脳はシングルタスクで処理されるため、自称・マルチタスクを名乗る者は単なる注意力散漫。ゆえに、もしもマルチタスク的にこなす者がいるとすれば、それは「シングルタスクの切り替えが早いことで、同時に複数の処理を行っているように見えるだけ」である。

そんなわけで、視界の右端にスマホの画面を捕えつつ、右耳でアニメの音を拾いつつ、時にはアニメの存在などすっかり忘れながらピアノの練習をしていた。意識としては、楽譜・鍵盤9割スマホ1割・・といった割合だが、流れる楽曲と声優の声とを同時に聞いている時点で、ピアノの練習に集中できていないことは明白。それでも、楽譜を読み指を動かし何時間をも費やした結果、「わたしはピアノの練習をした!」という自己満足を得ることができるのだ。

 

もう一つの理由を挙げるとすると、一つのことに集中するのが怖い・・というか集中力のゾーンまで自らの意識を持っていくのが面倒なのだと思う。そのため、ホワイトノイズならぬアニメノイズを発することで、無理矢理ピアノへ集中させるべく自らを追いやっているようにも感じるのだ。

いずれにせよ、一つのことに集中できていない状況が「いい」はずもなく、ただなんとなく二つの動作をこなしたことで「やった気」になっているだけなのは間違いない。それでも、ピアノ演奏を披露する機会が訪れなければ、己が犯した罪の重さを知る日など来ないのも事実。だからこそわたしは、あのような無駄かつ無意味な時間を悪気なく過ごしてきたのだ。

 

 

来年、5月4日に行われるピアノ発表会に向けて練習を重ねるわたしは、本番で弾く曲を初めて友人に披露した。出来栄え云々は置いておいて、今年一年のお礼も兼ねて「現時点での最高」を聞いてもらおう・・という思いで、意気揚々とスタジオへ乗り込んだ。

ところが、暗譜で挑んだ一曲目の途中、普段ならば絶対にミスなどしない箇所で譜面が飛んだのだ——あれ? ここってどの音だっけ。

無意識に指が掴んだ鍵盤は、同じパッセージだが後半のほうである。一回目はこの音ではないはずだが、正しくはどの音だったのかが思い出せない。頭をかすめる楽譜はおぼろげで読めない。ならばと感覚に任せて弾き直すも、やはり同じ箇所で止まってしまう——最悪だ。

 

ちなみに、二曲目も最悪の演奏となった。こちらは楽譜を持参したので「次の音が分からない事件」には至らなかったが、左の前腕がパンパンに腫れるほど指力全開で鍵盤を叩きつけてしまった。

なぜそうなったのか、理由は簡単。潜在意識下で「少しでもいい演奏がしたい」「聞いている友人を喜ばせたい」という実力以上の奇跡を願った結果、無駄な力みにつながってしまったのだ。

 

二曲を弾き終えて、まるで地獄に落とされたかのような恐怖の時間を過ごしたわたしは、とにかく言葉が出なかった。作り笑いすらできないほど疲弊かつ失望し、本当に目の前が真っ暗になった。

(どれもこれも、練習の仕方が悪いせいだ・・)

その時初めて、アニメを見ながらただ指を動かしていた自分を呪った。その瞬間は楽しかったし充実していたのかもしれないが、本番の環境——殊に「心理的な部分」で本番を見据えた練習ができなければ、それこそ練習のための練習にしかならないのに。

 

本番という二度とやり直しのきかない舞台で、今できる最高の演奏を披露するのがピアノ弾きの使命である。それなのにわたしは、真剣に「本番」を意識しなかったせいで毎日何時間も指のトレーニングをこなしただけだった。音楽という芸術に近づこうともせず、ただただ打鍵することで「やった気」になっていたのだ。

(あぁ、今でよかった。この時点で気付くことができて・・手遅れになる前で本当によかった)

極度の疲労と絶望に項垂れながらも、心の中で思わず「セーフ!」と叫ぶわたし。発表会本番がゴールだとすると、それまでの紆余曲折はすべて芸の肥やしになる。今のうちに散々失敗しておくことで、ミスの修正や対策を練ることができる・・つまり、早い段階で大失敗を経験できてラッキーだったのだ。

 

 

とはいえ、あんな思いは二度としたくない。ややもするとトラウマになりかねない最悪のミス(暗譜が飛ぶ)だったが、本番という舞台が用意されたわたしにとって、あれは”あってはならないミス”でもある。

もしも本番で譜面が飛んだら——そんなことは、あってはならない。そのためにも、本番を想定した練習でなければ意味がないのだ。

 

何事も、本番のための準備・練習なのだと、今さらながら痛感するのであった。

 

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