K.310(ケッヘル310)解呪

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(きっと、わたしには一生弾くことのできない曲なんだ・・)

わたしには、生まれて初めて"練習することを諦めた曲"がある。それはモーツァルトのソナタK.310だ。明るくて華やかな雰囲気の曲・・言い換えれば、誰かに頼まれて作った社交的な曲が多いモーツァルトの中で、唯一、彼自身に起きた悲劇を音にしたためたかのような、悲劇的かつ内向的な旋律と和音が特徴の曲。加えて、多くのピアノ弾きから愛される、モーツァルトのピアノソナタの中でも異彩を放つ一曲といえるだろう。

そんなK.310に取り組み始めたのは、昨夏の終わり頃。素人の戯言ではああるが、譜読みが大変なわけではないし高度な技術を要する曲でもないため、比較的早く弾けるようになるのではないか・・と、楽観視していた。だがそれこそが、地獄の始まりだった。

 

どれほど練習すれども一向に弾けるようにならない焦りと己の無能さに、苛立ちと不安は募るばかり。そんなに難易度の高い曲ではないはずだが、なぜ簡単なパッセージすら転ぶんだ——。

明らかに実力不足である上に、ちょうどその頃から"師匠"に師事し始めたこともあり、今までの弾き方をぶち壊して新たに築き上げることを決めた矢先の出来事だったため、普通に考えてもうまくいくはずはなかった。それでも、まったく弾けるようにならない・・という恐怖に値する現実は、わたしに無言のプレッシャーを与えていた。

そしていつしか、自分に対して絶望を抱くようになったのだ。

 

とは言いつつも、「いつか弾けるようになるかもしれない。その"いつか"が今日かもしれないから、やっぱり弾き続けるしかない・・」と、まるで自分に呪縛をかけるかのように、来る日も来る日もモーツァルトに触れ続けた。追えば追うほど離れていく現実を、それでも捕まえたくて盲目的に手を伸ばしたのである。

その結果メンタルが崩壊しかけたわたしは、ついにK.310を諦めることにした。きっかけは、ピアノの先生の一言だった。

「今はちょっとだけ、この曲をお休みしましょう」

ボロ雑巾ように惨めなわたしを見るに見かねた先生が、とうとう三行半を突きつけたのだ——いや、救いの手を差し伸べてくれたのだ。

 

こうして、K.310を取り上げられてから3か月が経過したわけだが、昨日、ふとモーツァルトのソナタ集に目が留まったわたしは、久しぶりに"アレ"を弾いてみることにした。ただ単に「どんな曲だったかな」という程度のノリだったが、驚くべきことに、一小節目から思うような音が出せるようになっていたのだ。

(え・・こんなことって、ある?)

そもそも一小節目が上手く弾けずに頓挫していたはずが、今ではすんなりと、イメージ通りに鍵盤をコントロールすることができるではないか。確かに、毎日「いい音を出す練習」はしているが、まさかここまで弾きやすくなっているとは——。

 

 

わたしの嫌いな言葉の一つに、「努力は報われる」というものがある。これは非常に残酷な言葉で、もしも努力が報われるのならばこの世のすべての人間が幸せになれるはず。そんなわけがないからこそ、差別と格差が生まれるわけで。

それでも、時に努力は実を結ぶことがある。いや・・もしかすると、努力をしたからではなく、必然的に招かれた結果なのかもしれないが、それでも「やり続けてよかった」と思える瞬間が、訪れることもあるのだ。

 

昨年末までの地獄のような日々を思うと、「あんな無駄で無意味な時間、過ごす必要などまるでなかった」と、今ならばいえる。それでも人間は愚かな生き物ゆえに、あらぬ期待をしてしまうのだ。もしかしたら今日、できるようになるのかもしれない——と。

そんな無意味な失敗を繰り返しながらも、いつか成功に辿り着けたならばすべてが報われたと感じてしまう、愚かで哀れな人生をわたしは歩むのである。

 

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