鉄球ドリブルによる警告は、果たして健全な精神状態なのだろうか

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わたしは今、二人の先生にピアノを師事しており、地理的にみると、一人の先生は目黒でもう一人の先生は北赤羽が拠点。しかも、目黒の先生の"先生"が北赤羽の先生なので、わたしは勝手に「先生」」と「師匠」という風に呼び分けているのだが。

そして、先生のところでは普通に曲の練習をしており、いわゆる「ピアノのレッスン」と呼ばれるのがこちらだろう。一方、師匠からは音の出し方・・というか、あるべき音の姿を叩きこまれているので、弾き方というより「音を聴き分けるための耳作り」の訓練を受けている。

本来ならば、ピアノを習い始めると同時に音色や響きを聴き分けられるようになるのが理想だが、今の今までそういった習慣がないわたしは、人生半ばを過ぎてからようやくスタート地点にたどり着いたのである。

 

ちなみに、先生も師匠も自宅であるマンションの一室にグランドピアノがあり、それを使ってレッスンを行うのだが、建物自体の防音設備が完璧ではないため、ピアノ内部にフェルトやアクリル板をかぶせるなど、独自の防音・・というか遮音を施し、近隣住人への配慮を図っている。

とはいえ、生音を出せるだけでもわたしにとってはありがたいことなのだ。わが家など、ちょっとでも楽器の音がしようものならば管理会社へ通報が入るため、アコースティックピアノに消音装置を取り付けてヘッドフォン経由で音を出す・・という、肩身の狭い練習環境なわけで。

 

だがやはり、生音というのは立体的かつ遠くまで響く性質がある。ましてや師匠はピアニストとして生きてきたわけで、ピアノという楽器を最大限に鳴らすことのできる「腕」を持っている。

そのため、音量的には小さくても音の響きは床や壁を越えて伝わってしまうのだろう。ピアノの音がうるさい・・と、上階の住人からクレームがあったのだそう。

 

師匠いわく、「当時は好き勝手に弾いていたから、上の人からすればそれはそれは、我慢できないくらい耐え忍んできたのだと思うわ」とのことだが、堪忍袋の緒が切れた人間はもう後戻りできない。本来ならば気にならないレベルの音であっても、それが耳に入った瞬間に怒り・・というか憎悪が沸点に達するのである。

ましてや、一定ではない音——たとえば工事現場の作業音や、声や足音といった生活音などは、諦めに近い許容範囲(無論、度を超えた生活音は殺意を生み、確実にトラブルへと発展するが)といえる場合もある。しかしながら、音楽というのは一定の流れがあり曲として認識されるため、どんなに心地よいショパンであろうが情熱的なベートーヴェンであろうが、敵意ある相手にとっては怒髪冠を衝く勢いで神経を逆なでる行為となるのだ。

 

そして師匠と上階の住人とで話し合いをした結果、その場はとりあえず収まった様子だが、その後もむき出しになった神経は留まるところを知らず、小さな音かつ常識の範囲内でピアノを弾いているにもかかわらず、上階からの「警告」は続いたのだそう。

——そんな話を聞いてはいたが、まさかわたしが体験することになるとは思いもよらなかった。いつものように師匠の前で練習曲を弾いていたところ、上の方から鉄球でドリブルをするような音が聞こえてきた。最初は「家具の移動でもしてるのかな?」という程度でスルーしていたが、そのうちドリブルではなく鉄球を地面に叩きつけるかのような落下音・・いや、打撃音に変わっていったのだ。

思わず師匠と顔を見合わせるわたし——あぁ、これが例の「警告」か。

 

先述した通り、ピアノには遮音が施されているのでかなり小さな音しか出ない。なんせ、初めて師匠のピアノに触れたとき「小さすぎてよく聞こえない!?」と驚愕したくらい、繊細かつ微弱な音しか出ない設定となっているからだ。

それでもさすがは生音、これがCDやYouTubeといった二次元の音ならば、音量を上げても音の振動はそこまで増えないだろう。だが生音の威力というのは音の響き・・すなわち振動にあるため、小さな音でも確実に響きとなって広がっていくのだ。

 

それにしても、「鉄球による警告」を行った上階住人のメンタルが心配である。音の数が多い大曲を弾いたわけでも、フォルティシモの激しい曲を弾いたわけでもないのに、正気の沙汰とは思えないほどの感情をぶつけてきたわけで、まさに「半狂乱」という言葉がピッタリくる。

これは決してディスっているわけではない。そのくらいピアノの音・・延いては楽器に対する嫌悪感が募った結果、ちょっとでも耳に入れば感情のコントロールができなくなるほど精神が崩壊している証であり、もはや健全な状態とはいえないだろう。

 

(そんな精神状態で生活を続けていても、人生が楽しいはずはない・・)

炎症を起こして無防備に腫れあがった粘膜のように、触れるものすべてに反応してしまうような痛々しい状態で、穏やかな日常など過ごせるはずもない。かといって、マンションというのは上下左右と隣接しており、それらをすべて思い通りにコントロールすることはできない。できることといえば、自分自身をコントロールするくらいで——。

ちなみにわたしは、下の階から重低音を効かせたダンスミュージックが流れ始めると、ヘッドフォンを装着して音楽を聴くかアニメを見ることで、騒音からの回避を試みている。いかんせん、その音が不快だと感じるレベルはヒトによって異なるため、「音を小さくしてください」と言ったところで、相手にとっての「小さい音」がわたしにとっての「小さい音」とは限らないからこそ、相手を変えることよりも自分自身で策を講じることのほうが、有効かつ手っ取り早いのだ。

 

 

住居というのは、そう簡単に変えられるものではないし、無人島にでも済まない限り他人からの干渉を受け続けることとなる。「いいところへ引っ越した」と喜んだのも束の間、モンスター住人が現れればそれだけで天国から地獄へと突き落とされるわけで——。

 

要するに、ヒトはいつでもヒトに影響されるのだ。相手が動物ならば、そこまで目くじら立てずに済むことを、ヒト相手となると感情をむき出しにして己を貫こうとする。そうすることで、望んだ着地点を得られるならば結果オーライだが、今のご時世そう上手くはいかないもの。

とどのつまりは、自分が柔軟に変化することこそが、人生を楽しく生きる最大のコツなのかもしれない。柔よく剛を制す・・あれ?柔術も同じなのかも——。

 

サムネイル by 希鳳

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