「おばあちゃんが、あなたに会いたがっていたわよ」
ピアノのレッスンの帰りに、行きつけの珈琲店へ顔を出したところ、わたしを見るなり店主がそう告げた。おばあちゃんとは、過去に何度かおしゃべりをした、90歳のおばあちゃんのことだ。
毎度タイミングが悪く、わたしがここを訪れる頃にはおばあちゃんはすでに帰った後で、いつもすれ違いの報告を受けるばかり。とはいえ、こちらもレッスンが終わる時間が分からないので、約束が難しい・・というやむを得ない事情もあるのだが。
そんなわけで、また会える日を楽しみにしているにもかかわらず、なかなか叶わないのであった。
ちょうどその日、わたしは柔術の試合でもらった銀メダルを持参していた。
一般的には、日常生活を送っていてメダルをもらう経験などないだろう。しかも、かなり立派で大きなメダル——おまけに、丸ではなく四角い形の——というのは、柔術の試合に出たことのない人であれば、誰もが驚き喜んでくれる代物でもある。
残念ながら色はイマイチだが、それでも”メダル”というものを見てもらうべくわざわざ持ってきたわたしは、ガサゴソとバッグから銀メダルを取り出すと店主に手渡した。
「わぁ、すごい大きなメダル!!」
人生で一度もメダルというものを触ったことのない店主は、目を輝かせて喜んでくれた。
(要するに、メダルの価値というのは自分ではなく他人に対してあるのだ)
しばらくの間、他愛もない話をしながらコーヒーを満喫した後、店を出たわたしは階段を下りながらふと思った。あのおばあちゃんにも、メダルを触らせてあげたいな——。
幼い頃から股関節の病気で運動のできなかったおばあちゃんは、今でも杖がなければ歩けない。それでも、持ち前の純粋な心で他人への感謝や感動を忘れない彼女へ、是非ともこのメダルを見せてあげたいと思ったわたしは、踵を返すと珈琲店へと戻った。
「ダメよ、そんな大切なものを置いていったら・・」
当然の反応をみせる店主だったが、わたしにとっては「メダルという物自体に意味はない」というのが本音であり、やはり多くの人に見てもらい触れてもらうことが、メダルの持つ本質的な価値だと思うのだ。
だからこそ、おばあちゃんに見て・触れてもらいたいと考えたわたしは、躊躇する店主を押し切ってメダルを置いていった。そのまま店に置いておいてもいいし、いつか回収してもいいし、どっちでもいいや——。
翌週、レッスンで疲労困憊となったわたしは、脳みそを癒すべくいつもの珈琲店へと向かった。そして店内に入ると開口一番、
「おばあちゃんがね、メダルを持って帰っちゃったのよ。みんなで見れるしお店に飾っておこうか?って言ったんだけど、『私のために持ってきてくれたのだから、家で大切にしたい』って」
そう伝えられたのだ。この言葉を聞いたときほど、銀メダルを悔やんだことはなかった。どうせなら金色のメダルを渡したかった——。
おばあちゃんの長い長い人生の中で、もしかするとメダルを手にしたのは今回が初めてだったのかもしれない。しかも、何度か顔を合わせた程度の、どこの馬の骨かもわからない者の銀メダルなど、嬉しいどころか気持ち悪いと感じるかもしれない。
それなのに、まさかの「持って帰る」という行動には、驚きを通り越して目頭が熱くなった。
(喜んでもらえたならよかった。メダル本人にしてみても、銀色を悔やむ者のそばよりも、心の底から喜んでくれるヒトの手元で大切にされたほうが、よっぽど幸せなはず)
次におばあちゃんと会えるのがいつになるのか、もしかするともう二度と会えないのかもしれないが、それでもわたしたちがメダルを通じてつながっていることは、紛れもない事実である。
今度は、金色のメダルを持ち帰ってもらおう——。
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