それは一瞬の出来事だった。
わたしはクローズドガードで真水(仮名)の腹を挟みながら、ヤツの顔を見つめる。
真水はぎゅっと目をつむり、歯を食いしばっている。まるで痛みを噛みしめるように、そしてじっと耐えることで平穏を取り戻そうとしているかのように、微動だにせず固まる。
その数秒前、わたしの左足と真水の左足とがバッティングした。その結果、真水は怪我をしたようだ。
スパーリング中、突然の動きによるバッティングはよくある。またバッティングではなく、マットに引っかかって突き指をしたり、爪がはがれたり、そんなことは珍しくもなんともない。
そして今、まさにその状況となったのだ。
互いに差し違えるかのように足をぶつけ合い、相討ち状態で決着。
わたしはクローズドガードの体勢となり、真水はクローズドガードの中にかっぽりはまる形で跪(ひざまず)く。
相討ちの痛みに耐えるかのように、真水は口を真一文字にむすび目を固く閉じている。
(いやいや、わたしだって痛いさ)
内心そう呟く。そもそも真水のほうが体もデカいしパワーもある。それなのになぜそちらが苦痛で顔を歪めるのか分からない。
わたしは表情を変えずに、じっと真水を凝視する。
(あと何秒目を閉じているつもりだ?)
真水は毛並みのいいお坊ちゃん。実家が金持ちかどうかは知らないが、いいとこ育ち特有のオーラを纏(まと)っている。
その澄んだ瞳で謝られたら、いかなる偏屈上司も許さざるを得ない。
こうして真水は何十人、何百人もの関係者に対して謝り倒し、許されてきたのだ。
なかなか目を開けない真水をにらみつけながら、ふと自分の左足へと視線を落とす。
クローズドガードで組んでいた足をほどき、左足を伸ばそうとしたときーー。
白いマットに真っ赤な血がこぼれた。
(・・やっぱり)
ーー真水よ、おまえじゃない。負傷したのはこのわたしだ。
これだから温室育ちは困る。ちょっとバッティングしたくらいで、自分が大ケガをしたかのような勘違いをする。
そしてわたしは最初から分かっていた。手負いの戦士はこちらだと。
「・・・あのさぁ」
寝ているのかと疑うほどの長時間、目を閉じていた真水は恐る恐る目を開ける。
そしてわたしと目が合うと、視線をそのまま出血箇所へと導いた。
「あ、オレじゃなかったんだ!」
さっきまでの悲劇のヒーローはどこへ行った。急に晴れやかな表情になり、自分の左足を確認し始める。
「オレさ、『これぜったいに親指の爪はがれたわー』って思ったんだよね」
いやー、よかったよかったと言わんばかりの表情で、愛おしそうに親指の爪を撫でる真水。
対するわたしは、小指の外側の肉をえぐられていた。
ハーゲンダッツのアイスクリームをスプーンですくうかのように、短く切り揃えられた真水の親指の爪がわたしの小指の肉にくい込んだのだ。
マットに滴る鮮血を眺めながら、その日の責任者に話しかける。
「(血が出てるから)消毒ありますか?」
すると責任者はすぐさま、消毒のありかを指示してくれた。
「え、これは手指消毒用のアルコールだよね?」
入館時などに適宜使用するアルコールが目に入る。だがさすがにこれで傷口は消毒しないだろう。
「あ、もっと右です。右にあるデカい丸い・・」
言われるがままに視線を右へずらす。
するとそこには、除草剤や液肥を散布するための噴霧器が置いてある。
(こ、これってまさか・・・)
「それ次亜塩素酸ナトリウム液なんで、使ってください!」
この発言を聞いていた真水も思わず吹き出す。どうやら責任者は、
「マットに血が垂れているから、それを清掃するための消毒液」
という意味で捉えたらしい。まさかわたしの足に噴霧するとは思わずにーー。
真水といい責任者といい、わたしの扱いがかなり雑だ。
だがそこがまた彼らの良さであり、わたしの存在意義ともいえるだろう。
(ちなみに傷は2日で治癒した)
サムネイル by 希鳳
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