昨年、わたしは「今年こそ、人生最大のモテ期が訪れる」という、根拠のない自身に満ちあふれていた。
ヘアサロンでは「モテる髪型にしてくれ」と前のめりに伝え、野生動物のような立派な足先には洒落たネイルを載せ、突如襲い来るであろう『然るべき時』に備えて抜かりはなかった。
にもかかわらず、春が過ぎ夏も終わりいつの間にか秋を通り越して冬を迎えた12月、さすがに「このままではマズい」と感じたわたしは、ついに”モテるほくろ”・・いわゆる幸運ほくろを目尻に入れた。
これにより、強制的に「駆け込みモテ期」を引き寄せようと企んだわけだが、気が付けば昨年は終わり今年になっていた——そう、あの”幻の勘違い”から一年以上が経過してしまったのだ。
このように、人生というのは思ったようにはいかないものではあるが、とはいえ「まさかの転機」が訪れることもある。それが、つい先日勃発した「あんこが食べられるようになった事件」だ。
幼少期から極度のあんこ嫌いで、赤福から餅だけを取り出して水道水で洗って食べるほど、餅や米に固執するも”あんこへの敵意”は人一倍強かったわたしが、まさかの「あんことの和解」という偉業を成し遂げたことは記憶に新しい。
そんなわたしに、これまたありえない奇跡が起きた。それは、「牡蠣・あんこ・グリンピースという三大”不”好物の一つであり、”緑の悪魔”の異名をとるグリンピースを見事に克服」という、眉唾物の事実である。しかも、シュウマイのてっぺんに乗っている一粒などではなく、大量のグリンピースをスプーンですくって食べることに成功したのだ——!!
きっかけは、友人に誘われてサイゼリヤへ足を運んだことだった。ダイエット中のわたしは食べられるメニューが限られるため、ドリンクバーに加えてキャロットラペやほうれん草のソテー、小エビのカクテルサラダなど、野菜やミネラル中心の無難なメニューを選んだ。
だが、いずれも小皿であるためすぐに食べ終わってしまい、そのたびに友人が「さぁ、次はなににする?」と悪魔の笑顔でメニューを突き出してくるのだ。とはいえ、もうこれ以上わたしが選択できる小皿はない——柔らか青豆の温サラダ以外は。
これはどう見ても、「憎きグリンピースの大海原に温泉玉とペコリーノチーズが難破して助けを求めている図」である。こんなものを商品としてメニューに載せるサイゼリヤもサイゼリヤだが、図々しく定番として居座り続けるこいつもこいつだし、なによりもこのような不審物を注文する客の気が知れない。
結局、ほかに食べたいものもなかったのでメニューを閉じたが、それを見た友人がすかさずメニューを開き「どれにするの?」と、改めて注文を催促してきたのだ。大食漢である真の姿を知っている彼女は、わたしがダイエット中であることを承知した上で、それでもまだ何かを食べさせたいのだろう。ガツガツと勢いのある食いっぷりを楽しみにしている彼女の目は、さっきからずっと輝いている——。
そんな純真無垢な友人の願いを裏切ることなどできないわたしは、満を持して決断を下した。もはや「グリンピースを食べるしかない」と。
こうして、目の前に置かれた大量のグリンピースへスプーンを刺し込んだわたしは、これまでの人生が走馬灯のようによみがえった。
幼い頃からグリンピースが嫌いで、親の目を盗んではゴミ箱へ放り投げていたことや、シュウマイ弁当をもらった際に「なぜこんな嫌がらせをするのだろう?」と、シュウマイを哀れに思ったこと、さらには、天津飯の頭頂部に申し訳程度にグリンピースを乗せている中華料理店の店主は、いったい何を考えているんだ・・と謎の怒りを覚えたことなどなど、グリンピースにまつわる数々のエピソードを思い返していた。
そんな淡い記憶を払拭するとともに友人の期待に応えるべく、スプーンに乗せた5粒ほどのグリンピースと温泉卵の黄身を、勢いよく口の中へと流し込んだ。
(——ん? 不味くないかも・・・)
なんと、そのグリンピースは不味くなかった。もちろん、口が裂けても「美味い」とは思えないが、少なくともあの鼻につく青臭さは感じられず、むしろホクホクとした食感は好感すら抱くほど。
サイゼリヤのサイトを調べたところ、同じグリンピースでも「ベビービー」という早採りの豆を使用しているらしく、収穫後すぐに加熱・冷凍処理を施すため、甘くて柔らかい青豆を常に提供できるのだそう。
当然ながら、グリンピースを茹でる際に何らかの調味料で味を調えているはず。でなければ、あの不快感極まりない青臭さが皆無になることなどありえない。
まぁ、味付けについてはおそらく企業秘密なのだろうが、とにかくこれはグリンピースであってグリンピースではない——そう、メニューにも「青豆」と記載されているとおり、シュウマイやピラフの”お飾り要員”として召集されているあいつらとは、一線を画す存在なのだ。
そんな”精鋭部隊たるサイゼリヤのグリンピース”であれば味わうことができる・・という、まさかの事実を知ったわたしは、スプーンを握る手を止めることなく「緑の悪魔」を駆逐したのである。
*
こうしてわたしは、人生の後半に差し掛かったところで新たな「克服」を果たした。しかも、短期間に大嫌いな食材を二つも克服するとは、自分のことながらにわかに信じがたいわけで——。
いずれにせよ、これらの経験からも「人生というのは、いつ何が起きるのかなど誰にも分からない」と、改めて実感するのであった。




















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