性格改善

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一つのことに没頭し過ぎると、ついそれが「自分にとってすべて」と感じてしまったり、または、それが自分にとって特別なことだと思い込んでしまったりするもの。だが、よくよく考えてみると、どれもこれも自分という一人の人間が行っているものであり、「それだけは特別」などということはありえないのだ。

そして、経験値や技術的な差はあれど、冷静に俯瞰すると「できない」というのはどれも共通していることに気が付く。たとえばわたしならば、趣味として嗜(たしな)んでいるピアノと柔術という相反する競技において、嫌というほど”できない共通点”を痛感するが、それらの発端がじつは「性格的なもの」であるという事実から目を反らせてはならないわけで——。

 

 

いよいよ、来年の発表会に向けて譜読みを始めようか・・というわたしは、楽譜を開くなりおもむろに両手で鍵盤を叩きだした。本来ならば、そこは片手ずつ確認をするべきところだが、強欲かつ我慢のできない性格が先行して、意地でも最後まで両手で弾き切らなければ気が済まないのだ。

当然ながら「曲」と呼べるようなレベルではない。ただただ楽譜に書かれた音符をその通りに打鍵する行為を繰り返しているだけで、アーティキュレーションだの曲のイメージだのそんな芸術的な要素は皆無。むしろ、己の欲望を満たすためだけに暴走しているわけで、そんな無意味なことやらなければいいのに・・と、自分でも呆れる始末。

それでも、どうしても曲の全体像をこの目で見たい・・いや、この手で感じたいと欲するわたしは、何が何でも最後まで弾き切る!と決めているのだ。その行為がどれほど無駄で無意味だと分かっていても。

 

一方、ブラジリアン柔術では「ゴールばかり意識しすぎて、途中経過を疎かにしている」と感じる場面が多々ある。たとえば、相手をパスするなりスイープするなりしたい・・という気持ちが強すぎると、順序だてて進めるべきところをすっ飛ばして、不可能であるにもかかわらず相手に切り込んだりひっくり返そうとしたりする傾向にある。

さらに、相手の動きを注視せずに自分のことばかり前面に押し出していることから、思わぬ罠にハマることも。しかもその姿は、罠に引っかかったイノシシを彷彿とさせるわけで・・。

その結果、目論見が外れるだけでなく相手の反撃によってひどい目に遭わされるのだが、そんな時「どうしてわたしは、物事を一つずつ順序だてて進められないんだろう」と悩むのである。

 

——このように、ピアノと柔術における悪い癖の一部(しかも、ごく一部)を挙げてみたが、どちらも技術的な問題ではなく「わたし」という人間の性格的な問題であることが分かる。

 

ピアノに関していえば、やみくもに楽譜通りの音を出せばいい・・という競技ではないのだから、数小節でいいので曲が持つルールを守って弾き切ることが大切。例えば、8分の6拍子の曲ならば一つ目と四つ目の音が強拍となるように意識するとか、メロディーと伴奏の役割を明確に聞き分けて弾くとか、じつは気を付けなければならないことが山ほどあるのだ。

そして柔術に関しても、たとえば相手のガードを突破するには、勢い任せにエイッ!と飛び込んだからといって上手くいくものではない。相手がするであろう次の動きを読んだり、こちらの動きにフェイントをかけたりするなど、真っ向勝負でどうにかなるほど甘い世界ではないので、一つずつ目の前の瓦礫(がれき)をどかしながら、相手の懐めがけてにじり寄って行くわけだ。

 

たったこれだけことでも、よくよく考えれば根本は同じであることが分かる。先を急ぐあまりに、目の前の一歩を飛び越えていいはずがないのだ。本当に、一歩ずつ着実に進めていくことが大切であり、その一歩が速まることでゴールまでの道のりが短縮されるだけなのだ。

そういえば高校時代、部活動の練習で階段を上り下りするトレーニングがあった。1階から3階までダッシュで階段を駆け上がり、同様に駆け降りる・・というものだが、わたしは下りを一段飛ばしで颯爽と降りてきた。無論、エレベーターを使ったとか手すりを滑って降りてきたとか、そういったズルはしていないので、特に悪いことだとは思わなかったが、一階へ戻ってきたところで先輩に注意をされたのだ。

「階段を下るときも一段ずつ小走りで降りてきて。そういうトレーニングだから」

その時、わたしはハッとした。階段を上る行為は疲れるが、降りる行為はラクができる・・と、勝手にラクを生み出していたわけだが、実際には上りも下りもトレーニングだったのだ。ただ単にスピードを競うためのものではなく、細かくステップを踏むための練習であり、そこでラクをしたところで得られるものはない——。

 

・・まぁ、階段トレーニングとはちょっと違う話かもしれないが、いずれにせよわたしは、目の前の小さな一歩を疎かにしがちな性格である。その性格が災いして、ピアノも柔術もなかなか上達できないわけだが、技術的な部分ばかりを詰め込んだところで性格が改善されなければ進歩は見込めない——要するに、性格を直すためにピアノや柔術に取り組んでいるのである。

鶏が先か卵が先かは分からないが、自分の性格が改善されれば自ずと競技にも違いが出るはず・・いや、これは「絶対」と言える自信がある。

仮に、見ず知らずの誰かが弾くピアノを聞いていても、およそその人の性格が分かる。柔術の動きを見ていても、やはりどのような人物なのかが分かる。とどのつまりは、何をやっているかではなく「誰がやっているか」なのだ・・というところに回帰するわけで。

 

 

そんなことを一人考える、気怠い早朝なのであった。

 

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