わたしは今日、初めて「三つの音」を聞き分けることができた。いや、弾き分けることができるようになった。今までも同じ曲を弾いてきたのに、なぜか突然、弾き分けられるようになったのだ。
正直、嬉しさよりも驚きが大きい。なぜ突然できるようになったのか、その理由が分からないからだ。
・・どんなに頭で理解していても、それを指から鍵盤に伝えることができなかった。ところが、一週間ほど練習をしなかった結果、自然とできるようになっていたのだから——。
*
バッハの三声(三つの音で作られた曲。高・中・低音それぞれにメロディーがあるため、三人がそれぞれのメロディーを歌って一つの曲にしている感じ)で有名な「シンフォニア」の最後の曲を、なかなか仕上げられずにいたわたし。
(どうせバッハは苦手だし、柔術の影響で指も動かなくなっているし、三つの音を独立して弾き分けることなんてできっこない…)
と決めつけていたし、むしろそう信じていた。そして他人の上手な演奏を聴くたびに、地団駄を踏んで悔しがっていたのだ。
ちなみに余談だが、ピアノを弾くにあたり「正しい指使い」というものが存在する。楽譜に指の番号が書かれているため、その通りに弾けばいいだけだが、わたしの性格上、自分の弾きやすい指使いで好き勝手に弾いてしまうクセがある。
自分にとって弾きやすい運指ならば、それこそがベストのはず。だが実際には、そうとも限らないのだ。
(おかしいな、なんで毎回引っかかるんだ・・)
とある曲の途中に登場する、複雑な音階を弾きながらわたしはイライラしていた。ゆっくりならば間違えずに弾けるのに、スピードを上げると必ず間違えるからだ。いったい何が悪いんだ——。
何回、何十回繰り返しても変わらないことに腹を立てたわたしは、楽譜を閉じて別の曲を弾き始めた。それからしばらくして、ふと運指について考えた。
(ためしに楽譜通りに弾いてみるか・・)
そして再び楽譜を開くと、そこに書かれた番号の指使いで音階を弾いてみた。・・弾きにくい。非常に弾きにくい指使いじゃないか。
そもそも、指の長さや手の大きさにはかなりの幅がある。小さな子どもから成人男子までが弾き手として存在することを考えれば、当然ながら大きな差があるわけで。
そのため、手の小さな弾き手にしてみれば、楽譜に書かれた運指通りに弾けない可能性もある。であれば自らに可能な指使いをするしかないため、わたしは己の指が赴くままに弾いていたのだ。
こうして、「どうせうまくいかない」と思いながらも、楽譜に書かれた「弾きにくい指使い」で繰り返し練習していたところ、ある時から急にミスなく弾けるようになったのだ。
まさかと思ったが、一度弾けるようになるともう二度と前の指使いには戻らない。思い出そうとしてもまったく思い出せないどころか、昔からこの指使いで弾いていたのではないかと勘違いするほど、スムーズに指が勝手にそう動くのだ。
こんなことって、あるのだろうか——。
信じがたいが、事実として楽譜通りの指使いでミスなく弾けるようになったのだから、言い訳のしようもない。そう、これが「正しい指使い」なのだ。
*
冒頭の「三つの音」に話を戻そう。今までのわたしは、確かに楽譜通りの音符を弾いていたが、どうもガチャガチャで美しくなかった。
仕方なくYouTubeでピアニストの演奏を聴くと、とても滑らかで軽やかなバッハのシンフォニアが流れてくるわけで、同じ曲を弾いているのになぜこうも違うのか、いくら考えても分からなかった。
「どうせ上手く弾けないから」
と都合のいい理由を並べて、弾けない自分を正当化していたところへ、しばらくピアノに触れることのできない期間が訪れた。そして「これはラッキー!」とばかりに、バッハのことは忘れて射撃に明け暮れていたのだ。
・・現実社会に引き戻されたわたしは、再びピアノの練習を始めた。なんせ火曜日は恐怖のレッスンのため、このまま弾かずに明日を迎えることなどできないからだ。
そこで起きた奇跡こそが、コレである。あれほど必死に練習しても越えられなかった壁が、なぜ、練習しないことでいとも簡単にクリアできたのか。これはやはり脳の問題だろうが、それだけでは片付けられない「なにか」があるようにも感じる。
ヒトはなにかを失えば、その代わりになにかを手に入れるという。なにも上手くいかない現実に、唯一与えられたギフトがこれなのかもしれない。
それにしても、なんと美しいメロディーなのだろうか。これこそがバッハだ。昨日までは聞こえなかった独特なバッハ感が、今ならば自然と耳に届く。あれほど弾きたかったのに体現できなかった過去が、まるで嘘のようだ——。
他のバッハを弾いてみるが、やはりしっかりとメロディーが立っている。——なぜだ?本当になにが違うんだ??
恐ろしくも幸せな気持ちで、泣きながらバッハを弾き続ける夜更けであった。
コメントを残す