実年齢からすると驚異的な体力と内臓力を有するわたしは、年齢でヒトを分けることに否定的である。やや屁理屈に近い理論になるが、たとえばスポーツをしていて「年だから体が動かないんだよね」という場合、それは年齢のせいで体が動かないのではなく、単なる練習不足だろう。
できないことを年齢のせいにすれば、それに対して誰も否定することはできないし、それ以上なにかを言うこともできない——ある意味、最強の論破が完成するのだ。
とはいえ、仮に身体が固ければストレッチをすればいいし、筋力が落ちていればウエイトトレーニングをすればいい。脳の回転が以前よりも遅いと感じれば、読書や脳トレをすることもできるし、「歳をとったからできない」というのは、テイのいい言い訳でしかない。
この考えは今も昔も変わらないが、唯一、「年齢のせいにせざるを得ない現実」に直面したわたしは、己の孤独を感じるのであった。
*
周りを見渡せば、そのほとんどが自分より若い者たちで構成されている現代社会において、わたしはもはや年長者であり若者を牽引する立場となった。もちろん、仕事上の関係では年上の社長たちも多いが、プライベートの付き合いでは間違いなく年下の友人らに囲まれており、いつの間にかその感覚に慣れてしまったのだ。
年上だから・・というよりは、生来の気質とでも言おうか。物事をハッキリ伝えるタイプのわたしは、後輩たちから相談を持ち掛けられるたびに、本人が望んでいるであろう答え——無論、それが正解だと思うものに関してだが——をピシャリと言い当ててきた。
ほかにも、誤った方向へ進みそうになれば持ち前の圧でそれを阻止し、グズグズと足踏みをしていれば自慢のフィジカルでそれを後押しし、未来に悩む若者たちの指南役として、多少なりとも役に立ってきたのではないか・・と自負しているわけだ。
そんな強キャラ風のわたしにも、悩み——というかわだかまりや腑に落ちない気持ちに苛まれることはある。当然ながら、それに対する答えや対処法は分かっているし、それを実践すればいいだけのことなのだが、どうも踏み切ることができずモヤモヤ・・いや、モタモタすることがあるのだ。
そんな時、年下の友人らに愚痴を聞いてもらわけだが、彼女らが口にする”答え”というのは、わたしを思いやり寄り添うような「優しい慰め」ばかりであることに、ふと気づいたのである。
「そんなくだらないことで、ウジウジしてんじゃないよ!」
デコピンでもされながら豪快に笑い飛ばしてもらえたら、どれほどラクだろう——。かつてわたしが若かった頃、周りは年上の先輩で溢れており、彼ら・彼女らに追い付け追い越せの精神で、目一杯背伸びをしながら毎日を過ごしてきた。
失敗しても挫けても、顔を上げれば先輩たちの背中があり、「この失敗ですべてが終わることなどないんだ」という、希望に似た自信を与えてもらっていた。そして、わたしごときの愚痴や迷いなど鼻で笑われる程度の扱いで、そんな態度に幾度となく救われてきたわけで——。
当時は「小生意気で手強い地雷」という扱いから、手に余る存在ゆえにたらい回しにされてきたわたしだが、今となってはその地雷を処理する者がいない。わたしごとき末端の凡人がほざく戯言など一笑に付してほしいのに、それができる者がいいないのだ。
なぜなら、周りのほとんどが年下であり、先輩に向かってそんな大それたことができるはずもないからだ。
(あぁ、歳をとるって損することなんだな——)
*
「元気出してください。私はURABEさんに何度も救われてきたし、URABEさんといるのは本当に楽しいです。」
こんなメッセージとともに、スタバのドリンクチケットが送られてきた。後輩に気を使わせるとは、なんと恥ずかしいことか・・。
わたしならば、「しけたツラしてんじゃねーよ!」と笑い飛ばして終わりのところを、後輩はわたしを喜ばせようとこんな気遣いを見せてくれたのだ。
励まし方や答えの出し方は十人十色。だが、歳をとればそれだけ、正しいことをはっきりと伝えてくれる人は減るし、気を使われることで本音にたどり着けないこともある。
おまけに、残念ながらこればかりは変えようのない現実であり、歳をとる上で「最大の損失」といっても間違いではない。それでも、われわれは生きていかなければならないわけで・・。
——そんなことを考えながら、「とはいえ、このチケットは勿体なくて使えないな」と、嬉しくも残念に思うのであった。
コメントを残す