ネガティブな迷いの先にあるもの

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どんなことでもやってみなければ分からない。やらない後悔よりも、やったことによる失敗・・すなわち「結果」を反省するべきだ——という”愚者の考え”を支持するわたしではあるが、時には「やらない選択」をすることも大事だと思っている。

 

父は、わたしが幼い頃から「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という警句を使ってきたが、対するわたしは「他人の経験が自分と同じだとは思えない。だったら、失敗してでも自分の経験を増やしたい」と、真っ向勝負を挑んできた。

その考えは年を取った今でも変わらないし、それを貫いてきた人生を悔やんでもいない。しかしながら、歴史に学ぶ・・というよりは自分自身の感覚として「その選択をするべきではない」と感じることに関しては、どんなに”やってみなければ分からない”といえども、やる必要はないと思っている。

これは、わたし自身の経験というより他人を見ていて思うのだが、渋々ながらも何かを選択した(させられた)結果、成功どころか幸せになれる・・なんてことはないからだ。

 

何かの判断に迷うことはしょっちゅうあるが、それがポジティブな迷いかネガティブな迷いかによって、進むべきか避けるべきかを決める・・というのが、わたしの中にある一つの判断基準。

たとえば、「失敗するかもしれないし全てを失うかもしれない。でも、挑戦してみたい・・」というポジティブな迷いは、単にその先の一歩を躊躇しているだけで、当人の中では気持ちの矛先が決まっている。それに比べて「本当はそうしたくないけど、誰々がそうしてほしいっていうから・・」というような他人本意の迷いは、言うまでもなくネガティブな迷いといえる。そして、他人のための選択肢をチョイスした結果、乗り気ではない気持ちも相まって、待ち受けるのは晴れないモヤモヤとこの選択をした後悔なのだ。

 

とはいえ、そんな後悔も含めて「人生」なので、ネガティブな迷いを選択するのもまた一興・・と、皮肉交じりに受け入れるのも悪くはない。だがその場合、選択をしなかった人生を羨むことだけはしてはならない。

やむを得ずだろうが何だろうが最終的に決めたのは自分であり、「もしあの時、別の選択をしていたら・・」と悔やむ余地があるならば、そもそもその選択をするべきではないのは当然のこと。しかも、その後悔は自分自身にとどまらず、周囲の人間をも不幸にするから厄介なのだ。

他人を巻き込んだ不幸の責任など、到底とれるはずもないわけで。

 

たいていのことはやり直しがきくし、ネガティブな選択であったとしても「一つの結果」として受け入れることはできる。なぜなら、そうでもしなければたった一度の人生やってられないからだ。だからこそ、選択は慎重に・・などと言うつもりはない。その代わり、全身全霊でその役を演じ切ることが重要だと、わたしは思うのである。

自分自身がどう思おうが、そんな気持ちや感情はどうでもいい。ネガティブな選択をした「優柔不断な主人公の人生」を全力で演じることができれば、それはそれでくだらなくも面白い人生と言えるからだ。

(無論、そのように他力で哀れな人生よりも、自身が決めた選択肢で成り立つ人生のほうが、はるかに良いのはいうまでもないが)

 

・・などと、偉そうなことをつらつらと述べるわたしではあるが、「これ以上食べたら、満腹で動けなくなる」と分かっていても、「とはいえ、残したらもったいない」という卑屈な貧乏根性をコントロールできなかった結果、ビール樽のように膨らんだ腹を抱えながら苦しみ悶える——という失態を、幾度となく繰り返してきた愚者であるのも事実。

とくに、柔術の練習前にこれをやってしまうと練習相手に失礼にあたるので、断じてやるべきではない。言い換えると、練習でもなんでも「相手あっての行動」は自分ひとりの場合とは違うため、そこは相手に対して誠意を尽くすべき。そのバランスも含めて、どうすることがベターなのかを判断しなければならないわけで——。

 

いずれにせよ、どうせ悔いるなら「ポジティブな選択による失敗を、悔いる人生でありたい」と、わたしは考えるのであった。

 

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