正しさを教えてくれるヒト、それが師匠という存在。

Pocket

 

誰かに教えを乞うにあたり、その「誰か」が重要であることはおよそ分かっている。だが、世の中には知名度が高いというだけで「素晴らしい先生」と称される人々も居り、何をもって素晴らしいのかは人それぞれといえる。

・・いや、最も重要なことは先生との相性なのかもしれない。素晴らしい指導者だとしても、伝え方や表現が生徒に浸透しなければ、その言葉は無駄になってしまう。

 

とはいえ、何よりも先生側に「正しさを見抜く力」がなければ、そもそも教わる意味などないのである。

 

 

数日前、右ひじを負傷したわたしは「ここぞ」とばかりにピアノの練習に没頭した。

如何せん、ひじを曲げようにも90度以上は屈曲しないため、右手では歯も磨けないしピアスをつけることもままならない。当然ながら、柔術の練習もできないわけで、「ならば、ひじの伸展が影響しないピアノをやろう」となったわけだ。

そして張り切って練習時間を増やした上に、スタジオを借りて演奏を動画撮影するなど、普段はできない客観的な自分確認に時間を費やしたのだが、案の定、思っていた演奏とは違うお粗末な出来栄えに、ガッカリするのであった。

 

それでも「せっかく時間ができたのだから」と、鍵盤に向かって精進を続けてみたものの、さすがに練習しすぎたのか、前腕に筋肉痛のような疲れを感じ始めた。

(明日はレッスンだし、このくらいでやめとくか)

普段は自宅のアップライトピアノで、しかも消音装置をつけているので、電子ピアノ同然の「スイッチによる音のオンオフ」しかできない。だからこそ、スタジオでのグランドピアノによる練習は、鍵盤の感覚のみならず耳の訓練にもなるのだ。

そんな充実した最終調整を経て、レッスンへと向かったのである。

 

 

「・・えーっと、そうね。この二日以内で、なにか重いものを持ったり腕を酷使するようなことをしましたか?」

いつも通り、練習曲を弾き終えたわたしに向かって、戸惑いの表情を浮かべながら先生はこう尋ねてきた。無論、ひじを負傷したので運動はおろか重いものすら持っていない。腕を酷使する・・といえば、普段よりもたくさんピアノを弾いたくらいか——。

「右腕がとてもとても力強いの。勝手に力が入ってしまっているというか、なにかをかばっているというか・・」

その言葉を聞いて、わたしはハッとした。関係ないと思っていたが、まさかひじの痛みが影響しているのか——。

 

そこで、二日前に右ひじを痛めたことを話すと、先生はホッとした表情で「では今日は、かばっている力をほぐす練習をしましょう」と言ってくれたのだ。

正直なところ、何もしなければひじは痛くないし、過度に曲げ伸ばしをしなければ健全な腕そのもの。無論、ピアノを弾いてもひじの痛みなど感じないため、これのどこを庇っているのか全く分からない。

だが、先生に言われるがままに右手のみで練習をしたところ、手首を下へ落として弾こうとすると、若干ではあるがひじに違和感を覚えるのだ。

(まさか、この動きを庇って無意識に力が入っていたのか・・)

 

思い返せば昨日、なぜか右腕がパンプアップしていたではないか。いつもならばそんなことにはならないのに、あれはひじの痛みを無意識にかばっていたのが原因だったのだ。

そして演奏についても、なぜか力が抜けずにゴテゴテした音しか出ず、それをどうにかしようと躍起になって練習・・という名の筋トレを続けた結果、もはや無意識に“力を込めた腕の使い方“しかできなくなっていたのである。

 

そんな拗れたわたしに対して先生は、一つ一つ丁寧に、絡み合った糸をほどいていくかのように、間違った方向へ進みすぎた右手を戻していく——という作業を10分ほど繰り返した結果、確かに昨日とは違う指の動きになった。それはすなわち、先週までの弾き方に戻ることができたのだ。

(本当だ、ぜんぜん違う・・・)

自分自身の一部である腕や指なのに、なぜ自分自身が気づかなかったのだろうか。何かおかしい・・と思いつつも、なぜ原因を究明しようとしなかったのだろうか——。

 

そんな愚問や腹立たしさはあるものの、わたしの演奏を聴いて一発で異変に気づく先生は、まぎれもなく正しさを見抜く目と耳を持っている。しかも、とんでもなく拗れた状態をほぐすための、技術も伝え方も持ち合わせているわけで、「この人に師事して本当によかった」と心の底から感謝するのであった。

 

間違いに気づくことができても、それを正す方法や伝え方を知らなければ相手には伝わらない。そして、それは通り一辺倒な方法ではなく、十人十色で変化するものだと思う。

だからこそ、自分に不足するところを補ってくれる人・・言い換えれば、「正しさを教えてくれる人」と出会えることは、人生においてかなり重要な意味があるのだ。

もちろん、その“存在“というのは誰に対しても同じではない。だからこそ、自分にとって「師匠」と呼べる人に出会えたならば、たとえ同じ人生であっても、一味も二味も違う充実感と醍醐味を堪能することができるだろう。

 

そして、できるならば遠回りはもう勘弁なので、この失敗を二度と繰り返さぬよう己に刻み込みたいもの。

——なんとなく雰囲気に飲まれてはいけない。一つ一つの音を丁寧に、かつ、しっかりと耳を傾けながら、現実から目を反らさずに噛みしめていくこと。それこそが、わたしが最も苦手とする分野であり足りないことなのだ。

 

 

それにしても「怪我の功名」とはよく言ったもので、今回もまた怪我から学ぶ結果となった。

いつだって、怪我や病気はヒトに何かを教えてくれるきっかけとなる。だからこそ、転んでもタダで起きてはダメなのだ。痛い思いや辛い思いをしたならば、それに見合うだけの「何か」を手に入れた上で復活しなければならない。

 

そうでなきゃ、人生のバランスが釣り合わないわけで。

 

llustrated by おおとりのぞみ

Pocket