記事で誰かを書くにあたり

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取材というと、一昔前はアポをとって対面しながら話を聞くのが当たり前だった。しかし今では、Web会議システムやSNSをつかって相手と間接的に対面しながらインタビューすることができる。

やはり「顔を見ながら話す」ということは重要だ。単に話を聞くだけならば、表情という要素がなくても乗り切ることはできる。だが、その人をいかに引き出し、いかに魅力的に伝えられるかという部分に重きを置いた場合、表情という要素は欠かせないものとなる。

 

しかし時には、文字だけのやり取りでも「その人」を拾い上げることができる。そういう相手は取材対象としては満点であり、こちらの仕事もテンポよく捗るわけだ。

 

今回取材した友人は、筋がいいコメントをくれるのでずいぶん助かった。それに比べて困るのは、事前承諾を得るために、

「記事にするので話を聞かせてもらいたい」

と打診すると、頼んでもいないのに自身が構成したストーリーを滔々と語ってくれるタイプ。

気を利かせて面白そうな話を聞かせてくれるのだが、その話が面白いかどうかは私の主観で決まる。たとえ100人が笑う話でも、私が笑えなければ、それは「面白くない」となるわけで。

 

そんな気難しい私は、自分が面白いと思えるネタに出会えるまで、とりとめもない世間話を延々と続けるため、本題に入るまでに脱線しまくるのが常なのだが。

 

 

記事を書くにあたり、登場人物を褒め称える手法は個人的に好きではない。もしも私がそういう書き方をしたならば、その人物とは親しくない、または距離があることの裏付けとなる。

賛否両論あるが、できれば散々こき下ろしたあげく、読み手から「ひどすぎる!」とクレームをもらうくらいが理想。その理由は、読者が登場人物の味方になったのならば、その方が都合がいいからだ。

 

とはいえ記事に登場する「誰か」は実在するわけで、当人も必ず記事に目を通す。どんなに

「ディスってるけど悪く思わないで」

と念を押したところで、嫌な思いをさせては仕事としては失敗。その辺りのさじ加減は難しいところだが、すべて含めて信頼関係が担保する部分でもある。

そんなことを思いながらも、やはりちょっとはディスっておかなければ気が済まないのが私なのだが。

 

人間だれもがそうだと思うが、自分を含める誰かの失敗ほど面白いものはない。他人の成功話なんてものは、社会人として表面上は称賛するが、内心「ウゼェ」と思わないはずがないわけで。

さらに「失敗から学んだ系」の話も好きではない。オチが見えすぎるからだ。極論をいうと「お涙ちょうだい系」も鳥肌が立つほど嫌いだ。つまり、結論ありきでそれらのイイ話を引っ張ってくる記事に、私は1ミリも共感できない。

 

しかし世の中ではそういった記事はもてはやされ、いいねが押され、リツイートされる。これはいったい、どのような感受性の仕組みでそうなるのか、彼ら彼女らの頭をかち割って覗いてみたいところだ。

 

 

書いてもいいことと、書かれては困ることの「温度差」というものも、取材する側とされる側とで共通認識を持っておきたい部分の一つである。私だから話してくれた内容であり、不特定多数あるいは競合他社に知られては困る事情も、時には含まれているからだ。

その温度差を共有できていると、書く側はスムーズに筆が進み、修正も少なくて済む。そして明日も笑顔で会話を交わせる関係性が持続できる。

ところが少しでも眉をひそめる書き方や表現があると、友情にヒビが入らないとも言い切れない。そのくらい文字による表現は繊細で、時には強烈なダメージを与えかねないのだ。

 

友情とは関係ないが、スマホの文字入力で、一文字間違えただけでとんでもない意味になることはよくある話。

先日、友人が腹筋のトレーニングとして、膝を胸にくっ付ける「ニー・トゥ・チェスト(膝を胸へ)」を紹介していた。その件についてメッセージを送ると、真面目な友人から微妙な返信が届いた。

「なんか、怪しいプレイに早変わりだね」

なんのことかと送信済みのメッセージを見ると、なんと、

「ピー・トゥ・チェスト(おしっこを胸へ)」

と誤記していたのだ。

 

言葉の威力とは、想像以上の破壊力を持つものだ。

 

サムネイル by 希鳳

 

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