ヒトはなぜか白黒つけたがる傾向にある。
中途半端でモヤモヤした状態はそもそも気分がよくないし、できればどちらかにハッキリさせたい・・という気持ちになるのは頷ける。だが時にはどうしようもない場合もあり、不安定でざわついた心のまま明日を迎えることもあるだろう。
ところが、なぜか翌日になると状態が一変しており、「耐えること・・いや、寝ることは大事なんだな」と再認識させられたりするのだ。
ちなみに、「どうしようもない場合」の例として、怪我や病気が挙げられる。
怪我や病気といった不可抗力的な現実に対して、白黒つけようとするのは無理がある。加えて、不自由かつ哀れな自分と現実に対して、ネガティブな感情を抱くのも無駄である。自力でどうにもならない物事に対して、感情をぶつけたところで何も変わらないどころか、そういう感情を抱くことで自身の脳を無駄に刺激してしまうからだ。
だったら何も考えず、肘を痛めたならば「あぁ、今日も肘が痛いな」くらいに受け止めておくほうが、精神衛生上かなりマシといえるだろう。
しかも、痛めた肘が昨日よりも10度曲がるようになったならば、それは目覚ましい進歩といえる。昨日までできなかったことが、今日できるようになるなんて、そんな超常現象はなかなかあるまい。
そんな感じで、何もせずとも我々は日々変化していく。良くも悪くも「昨日と同じ」ではないので、たとえ不安定な状態だとしても、それを無心で受け入れることが、心身の健康にとって重要なのだ。
ピアノや勉強も同じで、上手くいかない部分があればそこだけを繰り返し練習するが、何十回やっても上手くいかないときは、潔くあきらめるべし。いや、あきらめるというより「明日へ期待する」という感じか。
これは持論だが、今日やるべきことをやったならば、あとは明日に期待するしか方法はない・・と思っている。“果報は寝て待て“とはよく言ったもので、一晩経ったら状態が劇的に変化するのは、さほど珍しくない話だからだ。
学生時代、単語帳とにらめっこするも頭に入らずイライラし、「これじゃあ無理だ、間に合わない!」と半泣きで布団にもぐるが、なぜか翌日になると記憶に残っている・・なんて経験はなかっただろうか。
あれと同じで、その時点ではどうにもならないことでも、日をまたぐと上手くいくこともあるのである。
ちなみに、あくまで個人的な見解ではあるが、「翌日になっても上手くできない場合は、そもそもやり方が間違っている」と考えていい。
実際には、取り組んでいる内容の難易度によって、翌日ではなく一週間後に成果が出ることもあるだろう。だが、わたしごとき凡人が手を出す内容で、一晩寝ても改善されないというのは、やり方が間違っている証拠なのだ。
あるいは、現時点では無理——フィジカル的な問題とか、今はまだその段階ではないとか——という可能性もある。そのため、半年後に挑戦してみたらすんなりクリアできた・・なんてこともあるわけだが。
これは、殊にピアノで顕著な現象といえる。上手く弾けないパッセージを、何十回繰り返し練習しても引っかかってしまう・・そんな時は、やるべきことをやったならば、モヤモヤする気持ちを抱えながらも箸を置くべし。
そして翌朝、いざ実食!!——その結果、難なく弾けるようになっていれば万々歳だし、昨日と同じ箇所で引っかかるようならば、そもそもの練習方法が間違っている・・と判断できるからだ。
「間違っている」というのは、技術的なことだけではない。自分の気持ちや意識の方向性が間違っていることもあり、そんな時はちょっと視点を変えるだけで、案外上手くいくこともある。
いずれにせよ、上手くいかないからといって、その日のうちにどうにかしようとするのはナンセンス。結果が伴わないうえに殺伐としたメンタルの荒野に立たされたのでは、あまりに絶望的でいたたまれないからだ。
当然ながら、白黒つけたい気持ちがあるのは理解できる。だが、時には「どうにもならないこと」を受け入れざるをえない状況もあり、そのモヤモヤで不快な状態を維持することで、まさかの「新たな境地」にたどり着くこともあるのだから。
付け加えると、最も危険なのは「現状を白か黒のどちらかに落とし込もうとする行為」である。
実際は白でも黒でもないのに、中途半端な状態を受容できないがために、無理やりどちらかへ押し付けようとする——そうすることで、本人の心境としては楽になるかもしれないが、事実としては短絡的かつ誤った処理であり、その先にある成長すらも封印してしまうわけで。
だからこそ、白と黒の間にある“グレー“という存在を認める勇気を持たなければならない。その不協和音こそが、自身の成長を示す道しるべなのだから。
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白黒はっきりさせたいタイプの頂点に君臨するようなわたしですら、こう思うこともあるのだ。
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