ここ最近・・いや、ここ数年のわたしの生活習慣は、確実に「良くない方向」へと向かっている。
一人暮らしかつ自営業ゆえに、声を発することなく過ごすことなどざらだし、めんどくさければ何もせずに一日を終えることもある。
そんな”廃人めいた生活”を送るわたしだが、なによりも良くないと感じているのは、「垂れ流しの情報に脳が疲弊していること」だった。
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静かであることに退屈さを覚えるわたしは、なんとなくの暇つぶしで常に音楽や動画を流している。その結果、聞く気がなくても四六時中耳に入ってしまう情報に、無意識のうちに脳が反応し続けているのだ。
我々の脳は、それが生音であろうが録音であろうが「人間の声」に反応する性質を持っている。そのため、YouTubeを聞きながら寝落ちした場合、体は寝ていても脳は処理をし続けるため、いつまでたっても休息をとることができない。
そして、そのような”質の悪い睡眠”を繰り返せば、当たり前だが脳は疲弊し思考力や判断力が低下する——わたしは今、この状態にあるわけだ。
これがまた不思議なことに、理解できる言語が流れてくると意識はそちらへ向いてしまい、考え事をしたくても考えられず、ひらめきやアイデアが全く浮かばなくなる。
たとえばコラムのテーマを考えようにも、背後で動画を流していると何も浮かんでこない。かといって、静寂に身を任せたところで上手く思考が巡らない——これは、「自ら考える」という能力が衰えた証拠である。
わたしの特技というか自慢できる点は、いつでも斬新なアイデアがポンポン浮かんでくることだった。それなのにここ数年、YouTubeやNetflixといった動画配信サイトのコンテンツをBGM代わりに流すクセがついたことで、いつの間にか「考えること」が出来なくなっていった。
作業をするにも食事をとるにも、あげくの果てにはトイレや風呂ですらスマホを持ち込み何らかの情報を得ようとする姿は、もはや病気といえるほど異常な執着を示している。
「スマホ依存症」というワードが生まれて久しいが、”依存”という言葉は病的でネガティブな様子を意味しており、決していい状態とはいえない。しかも、知らず知らずのうちに脳や精神が蝕まれていくため、気づいたときには時すでに遅し——そんな泥沼にはまった状況が、まさに今なのだ。
とはいえ、デジタルに支配されたわたしの脳が唯一開放される瞬間がある。それが、ピアノを弾いているときだ。
ただ指を動かしてただ楽譜通りに弾くだけならば、正直なところ「耳」は要らない。だが、ピアノを弾く上でもっとも重要なのは「出したい音を出せているか」なので、必然的に耳で音を聞くことになる。
加えて、自分が「どんな音を出したいのか」を脳で考え、その感情やパルスを体の内から指先を通じて鍵盤に放出する・・という作業こそが、ピアノを演奏することの真髄であるため、それこそ自分自身で考えなければならないわけだ。
そのためには、外部からの余計な情報や雑音は邪魔となるので、ひたすら自分の内面に向かってベクトルを固めなければならない。言い換えれば、「自分自身と対話するために『脳をイメージ』で満たしつつ、提示したいことが合っているかどうかを確認するべく、『耳は音』へ傾けなければならない」のである。
今となっては、その時間だけがヒトらしく思考し、自分らしさを表現できる唯一のチャンスとなってしまった。
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このままいくと、遅かれ早かれ脳がデジタルで汚染され、完全に依存状態となる未来が来るだろう。目だけでなく、耳も常に情報に触れていないと不安になる——そんな他力な人生、死んだも同然。
ヒトは自ら考えるからこそ面白い。その答えが間違っていたとしても、考えに費やした時間は意味があるし、そのことを後悔したりしない。
むしろ、考えもせずに他人の意見(AIの回答を含む)に左右された結果、望むような答えにたどり着けなかったときの後悔は大きい・・いや、その頃にはもはや後悔すらできないほど、脳は浸食され無気力となっているのかもしれないが。
たとえどんなに稚拙で無価値なものであったとしても、自らがひねり出したアイデアやイメージこそが、そのひとの個性であり能力といえる。だからこそ、思考のベクトルを自身の内面へ向けて、もっと脳みそを回していこう。そして、そのひらめきを外へ出していこう。
——文字でも音でも形でもなんでもいい。脳内のイメージを表現できたとき、初めて「自分らしさ」を知るのだから。




















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