NO ROLEMODEL, NO LIFE?

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外資系企業に勤める社労士の友人との会話で、こんなことが話題に上がった。

「日系企業にも、外資系企業のような人事のあり方や働き方を紹介していきたいんだ」

これは、外資系企業が素晴らしい!とか外資系企業のようにするべきだ!という意味ではない。過去に転職を重ねた彼女なりに、より多くの日本人に外資系企業のキャリア認識について知ってもらいし、そのサポートがしたいという趣旨だ。

温厚で優秀な彼女は人当たりも良く、誰からも好かれる性格の持ち主。そんな平均的なバランス感覚を持つ彼女が感じる、外資系企業でのキャリア形成の利点を、ガチガチの日系企業にも浸透させる手伝いをするのが将来の目標なのだそう。

「でもさ、そういうことを求める日系企業があるのかどうかもわからないし、どうやってサポートしていけばいいのかイメージがわかないんだよね」

なるほど、そういうことか。だがこれを聞いた私は、ちょっと思い出すことがあった。

 

私が毎日書いているこのブログ、投稿回数は555回を超えた。書くにあたってのモットーとして、「どんな人間がどの記事をクリックしても、単発で楽しめる記事」を念頭に、毎日キーボードをたたき続けた一年半だった。

だがスタート当初、このようなブログになるとは、本人以外は誰も想像していなかったのだ。

 

きっかけは、とある人物からの提案だった。社労士でありライターでもあるわたしは、ブラジリアン柔術とクレー射撃が趣味である。さらに飲み食いすることが人一倍好きなので、飲食店についての記事も期待できると踏んだのだろう。

そこで「ライターの新しい方向性」として、自らの得意分野や興味のあるジャンルを記事として発信していくことで、どのような効果や変化があるのかを観察したかったのだ。――提案者にはこのような目論見があったはず。そして私に負担をかけないためにも、

「好きに書いていいから」

という念押しまであった。もちろん私は二つ返事で引き受けたが、いま思えば提案者は、この「余計な一言」を言うべきではなかった。

 

私を好きにさせるということが、どれほど恐ろしく無謀なことなのか、当時は誰も理解していなかった。そのため、私の好きに書き続けたこのブログは、手のつけようがないほどトンデモナイ方向に進み、提案者の淡い期待は脆くも崩れ去ったのだった。

そして目的も目標も失ったにもかかわらず、毎日せっせと書き続けた結果が今日に至る、という経緯だ。だが幸いなことに、読者の読解力が高いという幸運に恵まれ、嬉しいコメントをもらうことがある。

「いつか書籍化されるのを楽しみにしています」

「毎日読むのが日課になっています」

とりあえず、ジュース一本くらいはごちそうしようと思っているので、発言者は私と会った際に自己申告してもらいたい。

 

しかしここ最近、常々感じることがある。

「文字が読める人間は多いが、文章を理解できる人間は少ないのではないか」

ということだ。昔と比べて今は動画が主流となり、本を手に取りページをめくることなどめっきり少なくなった。

動画は目からも耳からも情報が入るため、「ながら」で楽しむことができる。家事をしながら、ストレッチしながら、お風呂に入りながら、何かをしながら情報収集ができる便利さは、動画ならではといえる。

そしてこの便利さが仇となり、文章を読んでその裏にある「意味」や「背景」を理解するという努力を、多くの人が放棄し始めたのだ。

 

その証拠に、発言の言葉尻を捉えてバッシングしたり、会話を部分的に切り取って袋叩きにしたり、浅はかすぎる低レベルな言動が増えた。

 

だが私のブログにはこの手の「プロ読者」が一人もいない。そのため、どれほど叩きがいのある内容を書いても、誰一人として騒ぐ輩がいないという、ラッキーで乗りきれた一年半でもある。

そしてこの先、私が目指す方向性としては「4コマ漫画のブログ版」というジャンルを狙っている。新聞や雑誌のはじっこに、控え目に掲載される4コマ漫画。あれを読んで腹をかかえて笑ったり、涙が出るほど感動したりすることはまずないだろう。ハッキリ言ってしまうと、さほど面白くはない。だが、それこそがミソなのだ。

毎日読むにあたり、4コマ漫画が重かったら困るのだ!

単純なイラストで描くどうでもいい内容だからこそ、箸休めにもってこい。毎日読んでも疲れないヒントがそこにはある。

 

私の狙いも正にそれだ。このブログもほとんどがくだらない内容で、人生における学びなど微塵もない。文章も適当だし口調も乱暴。だが、「明日はまともな記事かもしれない」とか「明日もどんなくだらない記事を書くのか」という心境にさせることで、毎日のクリックを促しているのだ。

さらなる欲望として、4コマ漫画的ブログの執筆者の新たな呼び名を誕生させたい。ライター、コラムニスト、エッセイスト。どれもダサイ。もっとなんというか、ニュータイプなネーミングを開発したいのだ。一周回ってダサくてもいいしカタカナじゃなくていい、とにかくユニークで耳障りのいい肩書きを作り出してやろうと思う。

 

というわけで、外資系企業に勤める社労士の友人が考えるプランについて、

「必要としてくれる企業があるかどうか」

「どういう肩書きで営業すればいいか」

「どうやって関与していけばいいか」

なんてことはどうでもいい。むしろこれから自由に作り出せることだから。

旧態依然とした昭和体質の日系企業と、そこで働く40代以降の労働者。彼らに対して、会社は利益追求のためにも「価値のある人間に高い報酬を払うこと」と、労働者自身がお荷物とならないためにも「自らのキャリアにどのような価値があるのかを理解すること」についての教育は、今後確実に必要となる。

それは差別でも冷遇でもなんでもない、ごく当たり前のことなのだ。国や企業が見て見ぬふりをし続けた20年間のツケが、いまようやく顕著に現れ始めたというだけで。

 

ロールモデルなど必要ない。過去になかったならば、今作ればいいだけのこと――。という無謀な挑戦を、真面目でまともな友人に仕掛けさせようと、密かに画策するのだった。

 

サムネイル by 希鳳

 

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