好きでもない職業に就いた私

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ここ最近は、諸事情により時間が豊富にあるため、とりとめのない考えに思いを巡らせてみた。

「なんでその仕事を選んだの?」

これは、実際にわたしと会った人のほとんどが尋ねてくる質問だ。そしてわたしは毎回、答えに窮する。

仕事つながりの友人も多いゆえ、適当な回答は誤解をまねくし、かといって模範解答となるような立派なストーリーがあるわけでもない。

 

そのあたりを恐れずに振り返ると、本業である「社労士」という仕事に就くこととなった経緯はこんな感じだった。

 

 

今から12年前、スポーツ新聞社で働いていた頃。知人(オジサン)から突然、電話がかかってきた。

「おい、急いで弁護士か社労士の資格をとってくれ」

いつも突拍子もない発言をする人だが、今回もまたそんな内容だった。わたしは冷静に、

「弁護士はロースクールに通わなければならないし、社労士ってのはなんですか?」

と答えた。大学の友人で弁護士は何人かいるが、社労士という資格は聞いたことがない。税理士、司法書士、行政書士などとも違うようだ。

 

いずれにせよ、「急いで」取得できる資格ではないことくらい、素人のわたしにも明らかだった。

 

だがオジサンはあきらめが悪い。

「じゃあ社労士でいいや、お客さんが探してるから急いで取ってきて」

いやいや。忘れ物を取ってくるんじゃないんだから、急いで取れるものではないだろう。とはいえ「社労士」というまったく興味のわかない資格に逆に興味を覚え、ネット検索をする。

「労働法や社会保険、雇用保険など働くヒトに関するエキスパート」

一瞬、時が止まった。

 

(・・・なんじゃそりゃ。労働法ってあれだろ?残業がどうのとか、ブラック企業がどうのとかの時に登場する法律。そして社会保険って年金やら健康保険やらだろ?うわぁ、一番嫌いな分野だわ。学生の頃は年金払ってないし、年金の手紙も読まずに捨ててるし。大体、残業がどうのこうの言う奴ってそいつ自身に問題あるし・・・)

 

それでも、組織の中で働くことに窮屈さを感じ始めていたのも事実、このワケの分からない不向きな仕事をやってみることも、悪くはないと考えた。

そしてその足で、予備校の申し込みに向かったのだった。

 

 

試験まで時間がない。仕事が休みの日は朝から予備校へ行き、1.5倍速で講義のDVDを見まくった。もちろん、キュルキュルと早口でしゃべる講師の声は子守歌となり、ひどい時など閉館の見回りに来たガードマンに起こされて、いそいそと帰り支度をする始末。

年金、労災、雇用保険、どれも興味がないだけでなく、鳥肌がたつほど嫌いな分野ばかり。それでも合格をつかみ取るため、懸命に暗記と語呂合わせに力を注いだ。

 

そんなこんなで試験はビリ合格。とはいえ非常に効率的な合格だと自負している。そしてオジサンとの約束を果たすべく、さっさと社労士の登録をした。

言うまでもないが実務経験はゼロ、この不適性な仕事をどうやって進めるのかもか分からぬまま、見切り発車すぎるスタートを切ったのだった。

社労士幼少期の様子はコチラ

 

 

紹介が遅れたが、知人であるオジサンは公認会計士をしている。彼のクライアントが就業規則の整備を希望しており、社労士を探すくらいならわたしを社労士にさせたほうが早いと考えたオジサンは、見事にわたしをそそのかしたのだ。

とはいえ、社労士の仕事は何一つ知らないしできない。試験合格したとはいえ、あれは五分の一の確率で当たるクイズである。「マークシートの鬼」と恐れられるわたしにとって、センター試験当時からマークシートで高得点を稼ぐことは得意技の一つ。とにもかくにも「当てまくる」のだから。

 

そんなわたしの初仕事は就業規則の整備ではなく、公認会計士であるオジサンの自宅兼事務所の庭の手入れだった。草むしりから植木の剪定まで、とにかく必死にこなした。

「ちょっと!薔薇はどこへいったの?!」

奥さまの悲鳴が聞こえる。どうやらわたしは、奥さまが大切に育て上げた薔薇をむしり取ってしまったようだ。咲いていない薔薇など見たこともないのだから、無理もない。

「あら?レモンの木が・・・」

またもや放心状態の奥さまの視線の先には、丸坊主のレモンの木が寂し気に立っている。これはわたしなりに、アートな作品に仕上げようと尽力した結果である。

つまり、レモンの木を丸く切ろうと試みたのだが、切れば切るほどバランスが悪くなり、それでも切り続けるうちにレモンの木は丸坊主になってしまったのだ。

 

だがこの時わたしは思った。こっちの仕事のほうが、伸びしろがあると――。

 

 

人はなぜ「稼ぎ」を気にするのか。多くの人が楽して儲かる仕事、年収の高い仕事を求めたがるが、そういう価値観はどこで植え付けられたのだろうか。

 

無論、金があるに越したことはない。だがたとえば貧乏なピアニストがいて、その人が「演奏すること自体に価値がある」と考えていたならば、自分の演奏で金儲けができなくても何とも思わない。

むしろコンビニでバイトをしながら演奏活動を続けるほうが、よっぽど幸せで充実した人生といえるだろう。

 

同じく「読書こそが生きている証だ」「柔術こそが我が人生だ」と考える人らにとっては、高給取りになるよりも、読書や柔術の時間を確保できるほうが有意義で価値がある。

 

つまり、ステータスのある仕事をしているとか、高収入であるとかだけが、人生の満足度を測る指標ではない。

限りある一生のうちに何が一番やりたいことなのか、何が大切なことなのかをトリアージした結果、それを邪魔しない仕事こそが最高の職業という考え方だってある

 

わたしにとって、「やりがい」だの「向き不向き」だのはどうだっていい。時間や場所に縛られず、自由にやらせてもらえる仕事ならば何だっていい。だからこそ、嫌いで苦手な社労士を12年も続けてきたのだから。

 

とはいえ仕事である以上、業務を完璧に遂行するのは当たり前。

「数字が苦手なんで間違えました」

「接客が嫌いなので客を怒らせました」

こんなことは言語道断。やるからにはやる、ただそれだけだ。

 

そういう意味で、仕事を好きになる必要はない。得意なことを仕事にする必要もない。持つべき信念はただ一つ、割り切ることだ。

仕事は趣味ではない、金を稼ぐための手段だ。ならばそこは割り切るべき部分でもある。極論に近いが、「感情を無にして仕事に取り組む」という考え方だって、持続可能な仕事のあり方という観点からすれば、立派な働き方改革の一つといえる。

生真面目な日本人は、仕事に対して必要以上に気持ちを入れ込む傾向にある。だからこそ無駄に疲弊してしまう。よって、そこは淡々と心を無にしてマシンと化すほうが、逆に効果的だったりするのだ。

 

こういう考え方で仕事をする人間が、少なからずここにいる。だからこそわたしは、社労士という仕事になんの思い入れも熱量も感じないし投入するつもりもない。

 

これからもずっと、このスタンスで社労士という仕事を続けていくだろう。

 

サムネイル by 希鳳

 

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