ツルン

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――シャバの空気はうまい。厳密には「港区外」のシャバの空気はうまい、というべきか。今日は堂々と道を歩くことができるわけで、こんな爽快な気分になるのは帰国後初めてだ。

犯罪者でも感染者でも濃厚接触者でもないのに後ろ指をさされ、人目に触れぬようひっそりと生きた10日間。それがようやく解放されるのだから爽快じゃないはずがない。

 

久しぶりの都会に戸惑っていると、一人の女性がわたしの近くへ腰を下ろした。

「えぇ、はい。あー、ちょっと待ってもらっていいですか?」

イヤフォンマイクで話しながら、ガサゴソと自らのバッグを漁る20代半ばの女性。しかしイヤフォンマイクというやつは傍から見ると滑稽だ。髪の毛で耳が隠れていたりするとなおさら、ブツブツ独り言をしゃべる宗教家と間違えそうになる。

 

「あれ?電波わるくてPCが無理そうなので、とりあえずこのまま携帯で続けていいですか?電波が戻りしだいPCに切り替えるんで」

 

聞き耳を立てているわけではないが、なんとなくそんな会話が聞こえてきた。

――あぁ、わかるそれ。Wi-Fiが弱くてオンラインミーティングに参加できないときってあるよね。

そのような事態を防ぐためにも、わたしはスマホへすべてのWeb会議アプリを入れてある。そうすればPCを開かずとも、とりあえず自分の顔を相手に見せることができ、それなりに会議に参加している風を装うことができるからだ。

 

若いのにバリバリ働いて偉いな…とは思わないが、他人事としては適当に感心する。それにしても視界の端に見える彼女は、PC画面に食い入るように会話をしている。

(さっきからずっとケータイで通話のはずなのに、なんでだ?)

さりげなく女性を見ると、なんとメイク中だった

 

PCだと思ったのはデカい卓上ミラーで、鏡の前にはシャネルやディオールの化粧品がずらりと並び、顔面をガッツリ作っている最中だった。

(…だからPCつないじゃダメだったのか)

若い女性というものは、スッピンでWeb会議には参加できない。そこで「Wi-Fiがつながらない」というテイで電話を継続し、そのすきにメイクを終わらせようという作戦だ。そして顔が完成した暁には、

「あ、ようやくつながった!」

とやればいい。なるほど、さすがだ。

 

案の定、5分後には本物のPCを取り出し、電波がわるいどころかバンバン飛んでいるWi-Fiに接続すると、

「お待たせしてすみません、今ちょうどつながりました!」

と、いけしゃあしゃあと言ってのけた。その顔には悪びれた様子もなく、5分前のあのツルンとした能面もどこにもなかった。

 

とはいえ、相手を騙したり陥れたりするつもりもなく(いや、仮にそれが目的であってもまったく構わないが)、物言わぬWi-Fiを悪者にしてメイクを完成させるとは、なかなかのやり手よ――。

 

愛らしい笑顔とSっ気のある口調で、テンポよく言葉を投げかける女性。わたしは、去り際にチラッと画面を覗いてみた。するとお相手は、テレテレしながら満面の笑みを浮かべる中年男性だった。

もちろん、会話からも仕事の打ち合わせであることは明確。だがどうせ若い女性とおしゃべりするならば、単なる通話よりビデオ通話のほうが目の保養にもなり断然お得。

そして女性側もその趣旨を理解しているため、ウェブ会議においては中年の夢を叶えるべく、完璧なメイクを施すのだ。

 

女同士ならば必要のないばっちりメイク。それを仕事とはいえ、しがないオッサンのためにひと手間かけてやるのだから、多少の時間調整(Wi-Fiがつながらない)はご愛敬。

ましてや、定時にツルンとした能面が座っているくらいなら、10分待たされてもいいからキラッキラのお人形さんに現れてほしい――。これこそが、全国のオッサンたちの切なる願いなのだ。

 

そんな社会の奥深さをしみじみ感じる、久々のシャバであった。

 

サムネイル by 希鳳

 

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