(・・まるで大根おろしだな)
みるみる削られていくわたしの心は、例えるならば「おろし金で削られる大根」のようだった。粗っぽいギザギザの突起が、みずみずしい繊維質の大根をゴリゴリとすりおろしていく——そんな感じで、ヒトの心は削られていくのだということを知った。
そもそも、わたしの力で他人を変える・・などというおこがましい発想は持っていない。だが、少しくらいは何らかの影響を及ぼすことができたら——その結果、相手の人生がより充実したものになればと、助言やサポートをすることはやぶさかでない。
もちろん、そうすることで相手が喜んでくれるのが一番嬉しいわけだが、そんなことを繰り返していくうちに、ヒトは・・いや、わたしは知らぬ間に傲慢になっていった。
人生の岐路に立たされた際の選択に、「わたし」という存在が影響していないことを知り、ショックを受ける出来事があったからだ。
*
淡々と続く相手の話に耳を傾けながら、わたしの心はみるみる小さくなっていった。本当にこの表現が相応しい・・と思えるほど、おろし金でゴリゴリと削られていく感覚に妙に得心が行く。
そして、無機質な言葉の羅列(という風にしか聞こえてこない)の中に、わたしの存在は微塵も入っていない。当たり前といえば当たり前だが、それでも、これまで時間をかけて築き上げてきた関係性があるにもかかわらず、まるでなかったことのように振り出しに戻っている話の内容に、わたしは呆然と立ち尽くすしかなかった。
(こんなことでショックを受けるとは、ずいぶんと傲慢になったもんだ・・)
小さく削られた心の欠片をギュッと握りながら、とんだ勘違いをしていた自分を薄ら笑いで慰めるわたし。いつの間に、相手の人生に介入できるなどと思い込んでいたのだろうか——傲慢にもほどがある。
そういえば、とある友人がこんなことを言っていた。
「自分が何かしてあげられると思って本気でアドバイスして、だけど他人の人生に自分の影響を意図して出せるわけでもなく、無力感というか虚無感だけが残った」
——あぁ、よくわかる。
きっとわたしは、ほんの少しでいいから相手の人生に加わりたかったのだろう。それなのに、人生の選択という重要な局面でわたしの存在が皆無だったことを知って、悲しかったのかもしれない。
(勝手にそう思い込んでいただけ・・なんていうか、滑稽だな)
これも一種の「見返りを求めた」ということなのか。ここまでしてあげたのに、なんで何もないの?——という、勝手な思い上がりが招いた事故であり悲劇なのだ。
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他人のために心を使う・・という行為は、どれほど可能だったとしてもそこそこにしておくべき。調子に乗ってあれこれ入り込むと、痛い目に遭うのは自分だからだ。
それでもわたしは、相手の幸せと成功を願う究極のお人好しなのである。
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