おそらく、どんなことにも共通する考え方だと思うが、改めて言葉の持つ意味を知ることで胸がスッキリした。
ピアニストでありYouTubeチャンネルも運営している黒木先生は、日本の音大を卒業した後にドイツへ留学してピアノを学んだ。そこで体験した「西洋の文化」について、YouTubeやオンライン講座を通じてアウトプットされているのだが、その中の言葉で「なるほど」と膝を打つ発言があった。
それは「知識と教養」という言葉が持つ意味についてだ。
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「自分の足で登り切った山頂からの景色と、ロープウェイで自動的に運んでもらった頂上の景色とでは、同じ景色を眺めているにもかかわらず感じるものが違うはず。それは、頂上までのプロセスが違うから」
たしかに、足元の悪い山道を苦労して登った末の山頂は、それはもう全てを許せるほどの絶景に見えるだろう。なぜなら、自分の足で登り切った達成感に加えて、登山途中のプロセス——足が痛くなったり心が折れそうになったり、逆に、道端の草花に癒されたり下山者の笑顔に勇気づけられたりと、十人十色の紆余曲折が描かれたストーリーが存在するからこそ、単なる山頂の景色が絶景に見えるのだ。
そういえば、何度も富士山に登っている友人が言っていた「自分の足で登るからこそ、楽しいし意味がある」という言葉も、登頂することが目的ではあるが、そこまでの過程に重きを置いているからこその発言だろう。ヘリコプターでひょいっと運んでもらったのでは、なんの感動も得られない。「あの景色を見るべく、この足でたどり着くんだ」という意思こそが、登山の醍醐味なわけで。
さらに黒木先生は、
「なにかをアウトプットする時に、発言者の言葉に重みがあるのかないのかが重要になる。知識としては同じでも大きな違いがある」
と続けた。そしてこれこそが”知識と教養の本質”なのだと気づかされたのだ。どういうことかというと、
「知識があればあるほど頭がいい・・というのはまるで違う話で、知識をどういう風に人生に活かしたり、自分の体験として人に語ったり伝えたりできるのかが大事。そのプロセスこそが教養なんだ・・と。つまり、“私はこれを知っている“というだけでは意味はなく、自分の体験と混ぜ合わせることで、オリジナリティーある価値観を生み出せることが教養なのだと思う」
と語ってくれた。
これは、現代における学校教育に対して警鐘を鳴らす内容であり、ピアノに限らす運動でも仕事でも同じことがいえるだろう。知識として100個のことを知っていたとしても、それを体現もしくはアウトプットできなければ、身についているとも本当に理解しているともいえない。
よって、自分の中で噛み砕いて消化して、自分の言葉を通じてアウトプットされたとき、初めて「できる」となるのだ。
わたしの趣味であるブラジリアン柔術で、強いあるいは上手い選手たちが共通して語るのが、正にこれだった。「誰かに教えるようになってから、(自分の柔術が)上手くなったと思う」と、誰もが口を揃えて言うのだからその通りなのだろう。
かつては「できない時代」があり、そこへ知識や経験が加わりなんとなく形になり、最終的に自分なりの言葉にすることで誰かに伝えて理解してもらう・・ここまでやって、初めて「できるようになった」といえるのだ。
仮にその内容が間違っていたとしても・・いや、一般的ではないだけで、当人にとってはそれが正解であり真実なのだとすれば、それはそれで構わない。ただ、自分の言葉で表現するには、それまでの人生が如実に反映されるため、どれだけ多くの経験を積んできたのか、そしてどれほどの感動や苦悩を味わってきたのかが重要となる。
誰かの受け売りでは響かない。響かないというのは、すなわち教養として身についていない・・ということだ。知識としては十分かもしれないが、知っているだけではなんの武器にもならないのである。
「岸辺に泊まっている舟を、つんと押して湖の真ん中へ向かう感じ」
「死人が墓場からノロノロと起き上がってくる感じ」
ピアノの先生が使う表現だが、これらの言葉を聞いてわたしはピンときた。無論、どちらも体験したことはないが、イメージするには十分な経験——映画やテレビ番組で、これらの光景を目にしたことがあれば、そのイメージを持って弾くことは可能だからだ。
その結果、出した音や弾き方が正しいものであれば、今度は「わたしの感覚」として、どのような言葉で伝えるのかを考える番である。もしかすると先生と同じ表現になるのかもしれないし、もう少し違う何かが加わるのかもしれないし、それもすべて「わたしの経験値」によって変わるわけで。
いずれにせよ、表面上の言葉をコピーして伝える・・なんてことだけはしたくない。それでは単なる伝言にすきず、わたしの言葉ではないのだから。
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知識を身に着ける過程が教養——この説明には合点がいった。そして、どれほど知識があって偉そうなことをのたまおうが、薄っぺらい言葉に対して反吐が出るほど嫌悪感を抱いてきた理由が、まさに「教養のなさ」なのだと知ることができてスッキリした。
これはすなわち、日本人が大好きな「高学歴」という安っぽい看板に意味がないことを示している。高学歴かどうかなど、どうでもいい話なのだ。本人がどれだけ知識を理解しアウトプットできるのか・・これこそが、真の賢さであり優れていることの証なのだから。
知識を得て教養を積み上げること——己の成長を言い換えると、こういうことなのだと改めて思うのであった。
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