わたしは、自分に対して興味を持たれたり深掘りされたりすることが不快でたまらない。たしかに昔から悪目立ちするし、相手側からしても「こっちだって、気にしたくてしてるわけじゃない!」と反論されるかもしれないが、一番の不快な理由は「正しく理解されないから」である。
他人なんてものは、それが例え家族や恋人はたまた気心の知れた親友であっても、わたしと同じ価値観で理解し合うことは難しい。仮に同じ熱量で分かち合えたとして、それがなんだというのか——。自分のことを他人に知ってもらいたい、あるいは認めてもらいたいという感覚がまるで無いわたしにとって、”わたし”という人間に興味を持たれることは、自宅へ押し入る強引なセールスマンみたいなものなのだ。
とはいえ、百歩譲って”興味を持つだけ”ならばまだいい。ただ、その結果「あぁ、こういうことでしょ?」というように、自分の解釈で勝手に結論付けないでもらいたい。なぜなら、相手が思う「こういうこと」とわたしの「ソレ」とは、ほとんどの場合で異なるからである。
とある友人から、
「他人が自分を理解できないように、自分も相手を理解できないのだから、もしかすると本当に同じ感覚なのかもしれないじゃん」
と指摘されたことがあるが、確かにその通りだ。わたしからしても、相手の理解度や価値観など計り知れないわけで、実はわたしと同じ思いで共感している可能性はある。
だが、今までの経験上それはなかった。
共感された件について話を掘り進めると、まるで頓珍漢なことだったり、同じことでもレベルが違ったりと、わたしが思う「ソレ」とはやはり異なるのだ。文字にすれば同じ”事実”かもしれないが、熱量こそが重要であるため、そこまで一致する「共感」と出会ったことはないのである。
だからこそ、わたしには分かるのだ。今、この相手は「わかるわかる! 私にも同じ経験あるから」と言ったが、実際のところは「行為としての事実」は同じかもしれないが、中身の温度差が違いすぎるわけで、それについて「わかる」はずもないのだ・・と。
こうなると、「分かりもしないくせに、分かったようなことを言わないでもらいたい」という不快感を抱くわけで、だからこそわたしについて深掘りしないでもらいたいのだ。
無論、わたしの生態についてまるっとそのまま受け入れてくれるのならば、不快でもないし一向に構わない。しかし、そこへ自分の経験や思考からくる「誤ったカテゴライズ」をされると、一気に嫌悪感が生まれるわけだ。
しかしながら、時には「お、同類か・・」と愉快な気持ちになることもある。これは、価値観の熱量が幾ばくかではなく、行為として同じことを同じ目的で実践した相手に対して抱く、ある種の仲間意識のようなもの。
「部屋でホコリを見つけたら、ホコリでホコリを絡めとるようにして、デカいホコリの玉を作りながら掃除を行うことで掃除器不要」
「シュークリームの皮をスプーンにして、中に詰め込まれているホイップクリームだけを食べる(ガワスプーンはカトラリー)」
この二つについて、「私も同じことやるよ!」という友人がいた。多分、彼女とは性質が似ているのだろう。見た目も生活環境もまるで違うが、それでも本質的な部分が似ているため、同じようなことを思いついて実行する・・ということにも頷ける。
もちろん、彼女はちゃんと掃除機をかけるしガワスプーンもしっかり食べるので、わたしよりは数段まともである。だが話を深掘りしてみると、同じような着眼点と感性の持ち主であることが分かるので、ある部分に関しては「同類」なのではないかと思っているわけだ。
何はともあれ、わたしは他人からの干渉を好まない上に、誰かと共感したいとも思わないので、「わたしを理解したい」という好奇心は捨ててもらいたい。純粋に「わたし」というニンゲンを受け入れるのならば——動物園に展示されている動物のように——大いに結構だが、それを自分の価値観や経験に落とし込もうとしないほしい。
仮にそうしたとしても、「つまりこういうことでしょ?」と、独自の解釈で結論付けないでもらいたいのだ。どう思おうが相手の勝手だが、口にされることでわたしはそれを否定しなければならない。そして、否定したところで相手にはそれが伝わらないのが関の山。なぜなら、価値観も経験値も違いすぎるわけで、理解のしようがないのだから。
どこまでいっても他人は他人。よって、自分の範疇に収めようとすると軋轢が生じるもの。だからこそ、ちょっと変わった人物がいたとしても、珍獣を眺めるかのようにそっと観察する・・に留めるのがいいだろう。
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