目の前に広がる憎々しい荒野

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新幹線に乗った時、わたしの前に座るオッサンだけがリクライニングシートをガッツリ倒していると、なんともいえない不幸な気分に襲われる。

よりによってなぜ、わたしの前のオッサンだけがこんなにもフラットにしているのか――。車両全体を見渡しても、ここまで背もたれが低くなっている乗客は見当たらない。念のため、わたしが乗っている11号車の1番から16番までの座席を歩いて確認したが、それでもやはり、ここまで完全に倒している乗客はどこにもいないのである。

 

誤解しないでもらいたいが、なにも怒っているわけではない。おっさんが強引に背もたれを倒しているわけではないし、そもそもここまでリクラインできる仕様の椅子なのだから、彼は与えられた権利を行使しているだけでなにも悪くない。

そんなことは分かっているし承知の上である。だがいかんせん、ここから見えるオッサンの後頭部に殺意を抱かずにはいられないのだ。決して、地肌が見えることが悪いわけではない。同様に、頭皮が脂ぎっていることも致し方ない。

それでもなぜ、何故、わたしの前に座る貴様だけが、こんなにもガッツリとシートを倒しているのか納得がいかないのだ。

 

・・いや、納得がいこうがいくまいが関係ない。誰も悪くないのだから。そして仕方のないことだし、強いていうならば「運が悪かった」だけのことである。

だからこそ気にするべきではないし、そんなちっちゃなことでイライラしていたら、限られた人生損をしてしまう。せっかくの移動時間なのだから、仏の心と菩薩の表情でゆったりと過ごせばいい。そうだ、そうするべきなのだ。

 

「あの、すみません。通らせていただいてもよろしいでしょうか・・」

 

窓側に座っていた女性が、小声でわたしに話しかけてきた。彼女はゴミ捨てかトイレに行くため、わたしの前を通って通路へ出たいのだ。ところが、わたしの前のシートが思いっきり後ろに倒されているため、彼女が通れないのだ。

「これじゃ通れないもんね」

普通の声量で捨て台詞を吐くと、わたしは立ち上がって通路へ出た。

もちろん恨みはないが、聞こえるであろう独り言を吐いたわたしは、荒野状態の後頭部の持ち主をチラッと見降ろした。仮に目が合ったところでどうってことはない。誰も悪いことはしていないのだし、飛行機の機内を思えば新幹線のほうがよっぽど広いのだから。

 

(・・・キ、キッサマァァァァーー!!!)

なんと荒野後頭部は、スヤスヤと気持ちよさげに眠っているではないか!せめて我々の嫌味節を聞いて、不機嫌になるなりドギマギするなりしろや!

 

い、いや。彼はなにも悪くない。シートを全開に倒して、心地よい眠りについて何が悪いのだ。だったらわたしも同じように寝てしまえばいいだけのこと。それなのに、他人の幸せを妬むような貧しい心の持ち主になってしまったのでは、ご先祖様も浮かばれない。

だがわたしには急ぎの仕事があるため、このオッサンのようにスヤスヤとはいかないのだ。だからこそつい、羨ましくなってしまったのだ。決して、背もたれをマックスまで倒されたことに腹を立てているのではない。

 

気持ちを落ち着かせようと、わたしはドリンクホルダーからアイスコーヒーを持ち上げた。東京駅構内にある「グランスタ東京」で見つけたカフェにて購入したものだが、予想以上に美味いではないか――。

上機嫌のわたしは、グイっと一息でアイスコーヒーを飲み干した。そして気分転換にゴミ捨てにでも行こうと、ドリンクホルダーを元の位置に戻そうとした時。

(ん?やけに固いな・・)

ドリンクホルダーは、手前に引っ張ると丸い輪っかが現れて、そこへ紙コップを差し込むことで固定される。ということは、しまう時には奥へ押せば戻るはずである。ところが、ある程度の力で押しても戻らないのだ。

 

(あまり強く押しすぎて、ドリンクホルダーが割れてしまっては大変である。というか、きっとなんらかのコツがあるのだろう)

 

そう考えたわたしは、押したり引いたり上下左右に動かしたりしながら、輪っかを戻そうと頑張ってみたが、どうにもこうにも微動だにしない。

もしかすると、しまいかたの説明があるのではないか…と、肘掛け辺りを何度も見直した。しかし、ドリンクホルダーの引き出し方についての注意書きはあれど、しまい方については一切触れられていない。

ということは、これは力づくではないということだ。ではいったい、どうやって元に戻すんだ――。

 

色々な意味でイライラしているわたしは、耳から蒸気が噴き出しそうになるのを必死に抑えていた。だがとうとう限界を迎えた。

バキッ!

まるで破壊音のような勢いのあるサウンドが響いたと同時に、ドリンクホルダーは元の位置へと戻った。

 

元へ戻ったのだ。なにも問題はない――。

 

Illustrated by 希鳳

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