手書きが減ったことで発覚したメリット

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中学校の美術教師をしている友人が、面白いことを教えてくれた。

「生徒とのやり取りで使う学習カードがあるんだけど、タブレットが支給されてからは読むのが楽になったし、公平に評価できるようになったよ」

(なるほど、今どきの中学生はタブレットで授業を受けているのか・・)

「公平な評価」の理由は、文字の上手い下手という要素が消えたため、純粋に記載内容で判断できるようになったからだ。

 

たしかに、字がキレイな人は賢く見える。内容は大したことはなくても、なんというか、その字面に圧倒されてしまうのだ。

わたしは字が上手くないので、結婚式や葬式のご祝儀・不祝儀袋への記名は、書道を習っていた友人に代筆を依頼していた。だが頼む暇や余裕がない時は、自らの悪筆を披露するハメとなり、心の底から耐え難い苦痛に襲われていたのだ。

そのため最近では、自分の名前をローマ字で記すようになった。ローマ字は、文字というより記号に近いため、誰が書いてもある程度のレベルを保つことができるからだ。

 

それにしても、ひらがなも漢字も美しく書くのは本当に難しい。今どきの子どもは多くの習い事に通っているそうだが、日本に生まれたからには書道やペン習字をマストにしたほうが、そこそこの年齢になったときに間違いなく得をする。

・・などと思っていたのだが、小中学生からタブレットを使うようになっては、もはやペンを使って文字を書く機会などほとんどないだろう。そのうち、ご祝儀や不祝儀が電子マネーで済むようになれば、文字の美しさはある種の芸術となり、一般人には縁遠い存在となるのかもしれない。

 

さらに友人は、タブレットを使って学習カードを提出するようになったことで、生徒たちにポジティブな変化が生まれた、と教えてくれた。

「でもね、手書きで提出してもらってた頃より、みんな文章が上手くなったんだよね。なんていうか、会話している延長で文字を書けるようになったというか」

これは意外である。たしかに、字がキタナイと書いている自分の気持ちも滅入ってくる。その上、漢字が分からなかったり言葉の使い方が微妙だったりすると、

「よく分からないから、簡単な言葉に置き換えちゃえ」

と逃げてしまうことがよくある。

鉛筆ならまだしも、ボールペンなどで記入する際には失敗が許されないため、漢字が怪しいときにはひらがなにするか、それがみっともないと思ったら平易な言葉で濁すという経験は、誰にでもあるだろう。

 

ところが、パソコンやタブレットで文字入力するようになってからは、文章の予測を示してくれたり、漢字の意味や文法を教えてくれたりと、頭の中のイメージをきちんと文字に落とし込むことが可能となった。

おまけに、書き直しの手間も感じられないため、何度でも「消しては書き直して」ができるのも強みである。加えて、コピーペーストなどの便利な機能のおかげで、手書きでは不可能だった「文字の大量移動」が実現したのである。

 

これらの機能のおかげで、文章を書くことが苦手だった子どもも、自分の言葉を使って教師と意思の疎通を図れるようになったのだ。

 

そういえば、友人でやたらと字が下手な男がいる。嘘か本当か、旧司法試験を1点差で不合格となったことを自慢げに語っているが、その話を聞いた弁護士の友人が、

「大学時代から口酸っぱく言っているけど、それはおまえの字が汚くて読めなかったからだろう」

と冷静に分析し説諭していたことを思い出す。もしも旧司法試験がタブレットで受験できたならば、本人曰く合格していたのだから、「時代に翻弄された」といっても過言ではない。

 

それでもやはり、字がキレイな人はどことなく賢く見える。

その例として、頭のおかしいクレームを書き連ねた手紙にもかかわらず、文字の美しさに思わず見とれてしまった過去を思い出す。

あれで字が汚ければ、まぁそういう人だろう・・・ということで落ち着いたはずだが、あまりの達筆具合に、どうしても信じられなかったのだ。

 

絶対的なものではないが、直筆の文字は「人となり」も透けて見える気がするわけで、やはり達筆であることに損はない。

とはいえ、この年から美文字を目指しても遅すぎるので、わたしの手書きはローマ字限定にしよう、と心に誓ったのである。

 

Illustrated by 希鳳

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