(わたしが一体なにをしたというんだ・・・)
咳喘息のピークが訪れるたびに毎回思うことだが、なぜこんなにも苦しい状態を強いられなければならないのか、まさか、これまでの悪行に対する天罰が下ったのかと、大いに悩むのである。
今朝も一睡もできぬまま目が覚めた。寝ていないのだから「目が覚める」という表現はおかしいが、うつらうつらし始めると猛烈な乾性咳嗽(かんせいがいそう)で現実に呼び戻され、体を休めるどころか四六時中覚醒を余儀なくされるわけでたまったもんじゃない。
さらに、「横になることができない」という辛さもある。
腰と骨盤が不完全なわたしは、椅子に座るという行為が苦手。電車やバスに乗ったら極力立つようにしているが、座面がよっぽどのものでない限りは座ることができないのだ。
そのため、寝る時くらいベッドに横たわって楽になりたいと願っているのだが、咳喘息はそれを許さない。
夜になると副交感神経が優位となり、気管支が緩んで狭くなるため咳が出やすくなるというが、これは「夜」が原因であり「横になる」ことではない。とはいえ、横になる=休息の流れから、やはり副交感神経に作用するのかもしれないが。
まぁそんなことはどうでもいいが、横になった途端に「待ってました!」とばかりに空咳の襲撃に遭うのだから勘弁してもらいたい。状態としては仰向けが最悪で、左右どちらかに向いてもさほど変化はない。まだうつ伏せのほうがマシな気がする。
それでも、一分と待たずに咳がわたしを殺しにくるわけで、横になるすなわち苦しむという構図が成り立っている以上、ベッドで寝ることは不可能となる。そこでしぶしぶソファへと移動するのであった。
そんな地獄の朝、わたしは生死を賭けた実験に挑んだ。
今までは、咳が出そうになれば流れに任せてコンコン出していたが、今日はあえて「我慢する」という選択肢を貫くことにしたのだ。
そもそも、痰が絡んでいるわけでも異物が入り込んだわけでもなく、なんらかのアレルゲンで過敏となった気道の炎症により咳が発生しているのだから、なにかを外へ排除するための咳嗽は必要ないはずである。ならば我慢したところで、あくびやくしゃみを堪えるのと同じ結果なのではなかろうか——。
そう考えたわたしは、こみ上げる咳の衝動を全力で抑えつけながら、何度も何度も耐えた。
(咳き込むと吐きそうになるが、堪える分にはその兆候は見られない。これはもしかすると、咳を我慢するほうが結果として辛くないのかもしれないぞ)
あたかも大発見をしたかのような誇らしい気持ちになった瞬間、わたしを大悲劇が襲った。
例えるならば、庭の水まきに使うホースをパックリと折り曲げたかのような、圧倒的な気道の狭窄を感じたのである。気道の前後が、あるいは左右がペッタリと張り付いてしまったかのような閉塞感に、わたしの目と鼻と口からあらゆる体液があふれ出た。
(死ぬかもしれない・・・)
久々に感じる死への予感。もしもこのまま気道が開かなければ、わたしは窒息死するだろう。救急車を呼んだところで間に合わないし、そもそもわたしの部屋まで上がってこれないはず。
あぁ、エアコンつけっぱなしで遺体の発見が遅れた場合、そこまでの電気代を払わなければならないのならエアコンを止めておこうか。
あぁ、明日は年金事務所で総合調査に立ち会う予定だったが、必要資料は事前に電子申請してあるからどうにかやり過ごしてもらいたい。
あぁ、コンタクトレンズを半年分購入したばかりなのに、まったくの無駄になってしまうのか。かといって、わたしほど強度近視の知り合いもいないわけで、すべて捨てられてしまうのだろう。
*
しかし数秒後、ピタリと張りついたホースの中央を空気が貫通した。ふっと呼吸ができるようになったわたしは、一命をとりとめたのだ。
今思うと、人間は意外と冷静に死と向き合えるのかもしれない。少なくともわたしは、狼狽することも泣き叫ぶこともなかった。ただただ、やり残した物事に対する後悔の念が浮かんでくるだけで、死への恐怖は微塵も感じなかったからだ。
まぁいずれにせよ、咳を堪えることは苦しいだけでポジティブな解決策にはなり得ないことが分かった。だがこうして、ちょっとだけ死を身近に感じることで、今日一日を精一杯生き抜く覚悟を持てるのであった。
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