殺人鬼に追い込まれた絶体絶命の局面で、咳によりバレる可能性について

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人間の体とは、非常によくできている——。

そう深く納得せざるを得ない状況に遭遇した。いや、実体験として痛感させられたのだ。

 

 

今から一週間前、わたしは声を奪われ変質者扱いされたわけだが、それと同時に持病である咳喘息の兆候が現れた。そこでいつものように、早め早めのステロイド兼β2刺激薬を吸入し始めたのだが、不思議なことにあまり咳はひどくならなかった。

「早めに吸入したから、ひどくならなかったのでは?」

それも一理あるのだが、毎回、決まってある程度のレベルまで達するものなのだ。早めに吸入を始めれば呼吸困難は免れる…というくらいで、そこそこ症状が悪化するのは致し方ない。

 

ところが今回、悪化する様子は見られなかった。軽い空咳は続くものの、いつものように酷くはならないのだ。それどころか、咳の間隔がどんどん開いていくではないか。

(いつもの咳喘息じゃなかったのかな・・)

いずれにせよ、柔術の試合が近いわたしにとっては好都合だった。そのうち空咳を気にすることもなくなり、試合当日は咳の「せ」の字も消えていた。

 

 

そして、試合が終わった翌日あたりから徐々に咳が出始めた。再び気道が腫れあがり、喉の炎症も顕著になってきた。おまけにまた、声が出づらくなった。

(一週間前に逆戻りしてる・・)

つい先日まで、完治したかのように咳もおさまり喉の腫れも引っ込んでいたというのに、なぜここへきてぶり返したのだ。疲労によるものか?それにしてはどこも疲れていないし、心身ともにピンピンしている。ではいったいなぜ——。

 

昨夜は全身の疼痛としつこい空咳により、ほぼ眠ることができなかった。ようやく眠りについたと思えば、気道が狭まっているせいで悪夢を見る始末。

そこでわたしは、起床と同時に近所のクリニックへと向かった。

 

「なるほど。アドレナリンが分泌していたせいで、咳が止まっていたのでしょうね」

主治医が笑顔で説明する。どうやら試合を機にアドレナリンが放出されたようで、そのせいで気管支を拡張させて空気の通りをよくしていた模様。なんとラッキーな作用だ——。

たしかに、就寝時に咳が酷くなる現象には、誰もが困らされたことがあるだろう。あれは副交感神経が優位になることで筋肉の緊張がゆるみ、気管支が狭くなることで起きるのだ。

そして今回、その逆の現象が続いたため、わたし自身が気管支を開き咳を鎮めていたのだ。

 

これには得心が行く。通常、空咳の開始から一週間が経過した頃には、やはり今のような咳の症状に見舞われているからだ。むしろ、試合前の数日間が異例だったのだ。

そしてアドレナリンが引っ込んだ今、正しい咳反応が現れたというわけだ。

 

「実際に、治療の第一選択は吸入ステロイドですが、その次にアドレナリンを入れたりするんですよ」

驚きの補足をする主治医。まさか、アドレナリンを注入せずとも、自ら生成することで気管支平滑筋を弛緩させていたとは驚きである。そして同時に、人間の体の凄さを思い知らされた。

思い返せば、今までもこの咳に長年苦しまされてきたが、なにか重大な場面では必ず咳は止まっていた。たとえば試験に挑む時やピアノの発表会など、緊張と集中そして静寂が必要とされる局面で、なぜか不思議と咳は収まっていたのだ。

これらはすべて、アドレナリンの仕業だったのだ。

 

(ということは、殺人鬼やエイリアンに追われて身を隠しているときに、ついうっかり咳をして見つかるという失態は、起こり得ないということか・・・)

 

ホラー映画などで、息をひそめて絶体絶命を乗り切るシーンがあるが、いつもわたしは心配していた。「もしも咳喘息の症状が出ている最中に、わたしがあの人物の立場だとすると、間違いなく咳き込んで見つかって殺されるだろう」と。

しかし、極度の恐怖や闘争心により交感神経が活発化した結果、気管支は拡張し瞳孔は開き、血糖値が上がり緊張はマックスとなる。そして咳は見る影もなく引っ込み、わたしは一命をとりとめるのだ。

 

——よかった。わたしは心の底から安堵したのである。

 

Illustrated by 希鳳

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