いま流行りの港区女子、もとい港区在住女子の底辺を支えるわたしにとって、かなり痛い出費となったことは事実。だが「これも必要経費だ」と言い聞かせ、長年慣れ親しんできた"紙の呪縛"から解き放たれた記念日こそが、今日なのである。
——そう。わたしは今日、紙の楽譜に別れを告げて電子楽譜と共に人生を歩む決意を固めたのだ。
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あれほど現金を軽視し、支払いが「現金のみ」の店を毛嫌いするほどの電子マネー信者のわたしが、ピアノの楽譜に関してはいまだに紙を貫いていた。なぜならば「電子楽譜の必要性をさほど感じていなかった」からだ。
普段のレッスンならば、仮に4種類の曲を持っていくとしても大した労力を要しない。なぜなら、自宅から先生のお宅までたったの2駅、タクシーならば5分とかからず到着してしまうわけで、1㎏近くあるベートーヴェンのソナタ集とて、往復のわずかな時間ならば気にならないからだ。
ところが、パソコンや道着と一緒に持ち歩くとなると話は別。大きなリュックにパソコンを入れるまではセーフだが、そこへプラスして重量級の楽譜を入れるとなると、重さもさることながら物理的に収納スペースの確保ができない。
それでも強引にねじ込めば、ギュウギュウパンパンズッシリ立体的なリュックが出来上がるわけで、背負う前から外出拒否のお荷物となる。
それでも、ピアノスタジオで練習をした後に仕事や柔術の練習へ行くとなれば、どうしても楽譜の持参が必須となる。かといって、分厚い楽譜をわざわざ持ち歩くほどの甲斐性はない——。
(やむを得ない、コピーしよう・・)
こうして、一時は楽譜をコピーして持ち歩いていたのだが、今度は"譜めくりの手間が煩わしい"と感じるようになったのだ。
巷では、専用ペダルを使ったりウインクをしたりすることで、楽譜がめくれるアプリが支持されており、わたしの先生もそのアプリを使っている。だがiPadがなければ使用できないため、まずはiPadを購入するという支出的最難関が待ち受けているのだ。
(楽譜だけのためにiPadなんて、もったいなさすぎる・・)
こんなところにカネをかけるくらいならば、必死に暗譜すればいいじゃないか。それができないならば、つべこべ言わずに紙の楽譜を持ち歩くしかないんだから——。
ところが5月に控える発表会で、どうやら楽譜を見てもよさそうな雰囲気が漂う中、生まれて初めて"楽譜を見ながら曲を弾く"というチャレンジも悪くないのではないか・・と思うようになった。
人間、堕落の味を覚えたら終わりである。「無理に暗譜しなくていいよ」と言われれば、「あぁ、そうですか!」とばかりにラクなほうへ飛びつくのは自然の流れ。なんせ、"暗譜"というのは暗譜のための練習が必要であり、ただ単に楽譜を暗記しただけでは上手くいかないものだからだ。
だからこそ、通常の練習とは別に暗譜の練習までしなければならないと思うと、どうにもこうにも先が思いやられる。ならばいっそのこと、iPadを購入して"ジェスチャー譜めくりアプリ"を入れてしまえば、この苦悩から解放されるわけで。
さらに、決断に至る最後の一押しとして、友人からの助言があったことも大きい。パートナーが音楽家である彼は、日頃から"ジェスチャー譜めくり"による演奏を見(聴き)慣れているため、わたしにそのアプリを推してくれたのだ。
(ここまで電子楽譜が浸透しているというのに、電子マネー信者のわたしが紙楽譜では、まさに口だけの恥ずかしいヤツになってしまう・・)
——こうしてわたしは、10.9インチのiPadを購入したのである。
本来ならば、楽譜のサイズに近い12.9インチがベストだが、持ち歩くことを考えるとやや大きすぎる。そのため、一つ下のサイズとなる11インチ周辺で最安値の商品を、吟味に吟味を重ねた上で選択したのだ。
(必要経費・・そう、これは必要経費なんだ)
呪文のように呟きながらクリックしたiPadを開封すると、いよいよ念願のPiascore(ピアスコア)をダウンロードした。さらに「物は試しだ!」と、さっそく楽譜を取り込みPDFにすると、iPadを譜面台へと載せた。
そしていよいよ、わたしのウインクで楽譜をめくる瞬間が訪れる——。
・・・パチッ
(おおおー!!!見事にページがめくれたぁぁ!!!)
右目でウインクをするとページが進み、左目でウインクをするとページが戻るという、至極単純かつ簡単な方法で譜めくりができる衝撃に、わたしは込み上げる感動を抑えきれなかった。
——あぁ、やはり時代はデジタルなのだ。ウインク一つで楽譜がめくれるならば、「譜めくり」という大役を仰せつかることにより、夜も眠れず神経をすり減らしメンタルを病む人間が減るのだから。
これはまさに人類の健康を保持するために必要な、画期的なアプリである!
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・・余談だが、わたしは無意識のうちに「左目でウインク」をしていた模様。なぜなら、そんなつもりはないのに楽譜が勝手に戻ってしまうからだ。
「・・あれ?おかしいな」と思う時はいつも、左目だけまばたきをしているわけで、間欠性外斜視でもないのに不思議な現象である。そんなときは慌てて右目でウインクをして、ペラペラと電子楽譜をめくっては帳尻合わせをするのだが。
いずれにせよ、自宅での練習はこれまで同様に紙の楽譜を使うが、どこかで弾く可能性のある曲などは、電子楽譜として取り込んでおくのが便利だろう。
たった一日で何十年分もの進化を遂げた気分のわたしは、今夜もせっせと練習に励むのであった。
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