(あぁ、気温は20度もあるというのに・・・)
まるで春がやって来たかのような、暖かくて柔らかな日差しを浴びながら、わたしは絶望の淵で震えていた。
*
火曜日は毎週恒例のピアノレッスンの日だが、実はわたしには、ここ最近YouTubeを通じて知り合った「先生」がいる。
彼は、今まで知ることのなかった海外におけるピアノ奏法や、ピアノという楽器への知識や理解をはじめ、日本人が幼い頃に習う「これぞピアノの正しい弾き方!」を正面からぶった切る、驚きのメソッドを教示してくれた。
一向に成長がみられないお粗末なピアノキャリアのわたしが、もしかすると今さら開花するのではなかろうか——と錯覚するほど、目から鱗の技術や練習方法を前に、わたしは新鮮な気持ちで鍵盤と向かい合っていた。
そして、たった二小節のパッセージを延々と練習し続けたのである。
わたしにしては珍しく、起床したらまずピアノに触り、仕事をしようとパソコンを開いたらピアノを触り、出掛ける直前にもピアノに触り、帰宅したらすぐにピアノに触り、寝る前にピアノに触って一日が終わるという、まさにピアノ中心の生活を送っていた。
ピアノに限らず、運動でも勉強でもなんでも同じだが、練習したからといってその努力が報われることはない。「努力した分だけ必ず結果がついてくる!」などと無責任な発言をする者もいるが、そんな傲慢な考えは即刻捨てるべきだ。
この世のすべては才能とセンスでできている。資質のある者が努力をすれば、それは確かに報われるだろう。だが、資質のない者がどれほど努力を重ねようが、それが結果に結びつくことなどないのだから。
そんなわけで、真摯にピアノと向かい合ったからといって、急にうまく弾けるようになるなどとは思ってもいないが、それでも、このメソッドを知る前よりも確実に指先の感覚が研ぎ澄まされ、体の根っこから弾いている感覚を掴めたのだ。
「努力よりも脱力」
と、その先生は言っていた。まさにその通りだ、わたしも"努力"というチカラよりも"脱力"のチカラ(?)を手に入れたいと願うわけで。
そしてなんとなく、たった二小節だが苦手なパッセージが弾けそうになってきたところで、レッスン当日を迎えたのである。
*
45分のレッスンを終えて先生のお宅を後にしたわたしは、思わず天を仰いだ。
麗らかな風がそっとわたしの頬を撫でる。柔らかな青空は優しくわたしを包み込んでくれる。そして道行く人々も、どこか幸せそうな笑顔で足取り軽く通り過ぎていく——。
(なぜだ・・なぜ弾けなかったんだ)
それなのにわたしは、心も指先も冷たく凍り付いたまま、ただただ空を見上げていた。そう、涙がこぼれ落ちないように・・・。
あれが「緊張」というやつか。わたしは、脱力を強く意識しすぎたせいで、逆にガチガチに力を入れてしまったのだ。
気持ちこそ"麗らかなそよ風"のつもりだったが、そんな軽やかなイメージとは裏腹に、指も手首も腕も肩も背中もガチガチに固まっていたのだろう。左手の人さし指が、まるで攣ったかのように固まってしまったのだから。
例のパッセージに差し掛かった途端、突如、中指に貼りついて離れなくなったわたしの左人さし指。それでもそのまま弾ききろうと、勇気を振り絞って鍵盤を睨みつけたところ、今度は右手の指までもが硬直してしまったのである。
隣で見守っていた先生も、さすがに言葉を失い苦笑する始末。——あぁ、これじゃわたしが練習してこなかったみたいじゃないか。
力を抜く・・ということが、これほど大変だとは思いもしなかった。そして、あえて力を抜くことの難しさを思い知った瞬間でもあった。
逆に「力を入れる」のはなんと簡単なことだろうか。力み方など教わらなくとも、必要に応じて勝手に力が入るわけで、知らず知らずのうちに筋力を身に着けた代償として、どうやらわたしは脱力を失ってしまったのだ。
(凡人こそ、努力を怠ってはならない・・)
やはり努力は必要だ。結果を手にするためには、人一倍の努力が必要なのだ。
——そう呪文のように言い聞かせながら、夜な夜な脱力の練習を繰り返すのであった。
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