ソとラを繋ぐ親指と中指の動きは、0か100か思考でいえば「0」なわけだが

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わたしは、比較的なんでもすぐにできるタイプで、逆に言うとすぐにできないことはいつまで経ってもできない傾向にある。無論、その行為がなんなのかによっても違うが、殊にピアノに関しては、言われてすぐに直せなかったことがない(ほとんど)ので、その場でできなければ未来永劫できないことを意味する。

とはいえ、先生の指示通りにその場で完璧に弾けるわけではなく、「こう弾いてみて」という方向性が理解できるだけ・・という場合もある。そのときは、わたしの中で「うん、これはできる」という確信があり、できると分かっているからこそ何度か練習すればできるようになるのだ。

・・念のため、誤解を招かないようにエクスキューズしておくが、わたしが言う「ピアノで直せないことはない」というのは、初歩レベルで単純かつ簡単な修正を意味する。ピアニストたちが抱える悩みや修正とは比べ物にならないほど、軽微で安易なものであることを強調しておこう。

 

時は遡って昨年8月の終わり頃、ピアノの先生に左手の音階について指導を受けた。

「ドレミファソラシド・・って、一つのかたまりで弾くのよ」

——そりゃそうだ、一オクターブの音階はドから始まりドで終わるのだから。

「あなたのはね、ドレミファソ・ラシドって二つのかたまりになっているのよ」

そう・・わたしの左手は、なぜかこのように二つに分けて弾いてしまうのだ。

 

原因はいくつか考えられる。まずは親指に問題があること。親指が意に反して傍若無人な振る舞いをすることから、親指だけが衝突音のようなデカくて破廉恥なノイズを出してしまうのだ。さらに、傍若無人な親指の"次の音"にも影響が出るのが問題。ドカンと打鍵した親指の次の音——音階でいうところの、ラを弾く中指——の準備が遅れるせいで、中指の音まで乱雑で荒々しくなってしまうのだ。そして、またすぐに親指が登場——音階の最後のド——することで、再び戦場のような混沌とした状況に陥るのである。

 

言われてすぐに直せないどころか、一ミリも何も変えられなかったわたしに向かって、先生は慰めるかのようにこう言った。

「あなたの親指と人さし指、中指の問題は、指の神経や腱が内包するトラブルだから、どうしようもないのかもしれないわね・・」

——そうなのだ。わたしの指が動かない原因の一つに、柔術により指を酷使していることが挙げられる。そしてこれが、いずれ治るものなのかどうかも分からないため、果たして改善可能なのかは不明。そんな根本的な欠陥を抱えた指では、繊細な音など出せるはずもないわけで——。

 

最終通告ともとれる慰めをもらったわたしは、それでもせっせと音階の練習を続けた。一向に変化のないまま、それでもいつか空へはばたけると信じて、憎き親指と向き合い戦い続けたのだ。

とはいえ、その中で発見したこともある。たとえば、手の向きと肘の位置について。ドレミファソラシドと右へ向かって上がって行くのだから、手の向きが鍵盤と直角だと、指を大きくくぐらせなければソとラを繋ぐことができない。・・だったら、最初から手の向きを右方向に向けておけば、ソとラつまり親指と中指をスムーズに繋ぐことができるのではないか——と考えたわたしは、肘を外へ開くようにして手の向きを右に変えてみた。そうすると、まるで指がトコトコ歩くかのように、前へ進むではないか。

 

ピアノの鍵盤は横に広がっているため、横に向かって指を動かすイメージだが、わたしの中では「横に動かす」ということに違和感があり、どうも上手くいかなかった。それが、少し向きを変えることで横ではなく"縦の動き"に変わったのだ。

(これなら、いつかできるようになるかもしれない・・)

 

 

あれから4カ月が経過した。相変わらず滑らかな音階は弾けないが、それでもソとラのデコボコ感は多少なりとも解消されたように感じる。そして、そんなわたしの左手の音階を久しぶりに聞いた先生はこう言った。

「今できていないからといって、それを『できない』と決めつけるのは間違いで、できる方向に向かっているのならば、その日が来るのをじっくり待つのが正解なのかしら。少なくとも4カ月前とは変わってきているのだから、すぐに結果を求めてはダメかもしれないわね」

 

・・やはり、わたしの音階は不揃いで不完全で、お世辞にも「弾けている」とは言えないものだった。それを「できていない」と否定してしまえば、0か100かの考えならば「ゼロ」となる。だが、0と100の間には1から99が潜んでいるわけで、二極化された判断だけが正しいとは限らない。

そして、ニンゲンというのは0も1も2も大きな違いとして感じられない生き物である。もしかすると、15や20であっても「0」だと感じる可能性もあるだろう。それが30や40くらいになると、なんとなく「100が見えてきた」と勘づき始めてやる気がでるのだ。

だからこそ、100が見えない小さな数字の段階で「ゼロなんだ」と決めつけてしまうと、将来たどり着けるはずだった100を捨てることになる。今が1、2、3・・29、31であることに気がつかなければ、手に入るはずの未来を取りこぼすことになるのだ。

 

——というわけで、結論から言うと「左手の音階はまだまだ弾けていない」わけだが、ゼロではない・・という確信を得たわたしは、地道にちょっとずつ数字を積み重ねていくのである。

 

llustrated by おおとりのぞみ

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