あぁ、これからはこのやり方が主流になるのか——と思う出来事があった。ある友人から、当人の性質について哲学的な相談を受けた際、何時間にもおよぶ長文のやり取りの末に「AIに聞いてみたら、今日の総括みたいな答えが返ってきた」と言われたのだ。
その文言を読んでみたところ、確かに、わたしが伝えたかった内容がまことしやかに並べられており、字面(じづら)でいうと「正しいことが見事に述べられている」と言わざるを得ない。だがそれはあくまで字面の話であり、中身は無味乾燥かつ無機質な文字の羅列でしかなかった。
それでも、友人にとって自分の疑問に対する答えが得られたり、理解の一助になったりするのであれば、そのAIが出した文字の羅列は"意味のあるラブレター"だったといえるだろう。
それと同時に、「だったら、二度とわたしに相談しないでほしい」と思った。
AIと比較されることがどう・・という話ではないが、人間であるわたしが答えを導き出すまでには、いくつもの段階を経て相手へと到達する。まずは相手の話を聞くこと、そして相手が求める疑問や不明点を明確にすること、そしてそれに対する答えを考えること——しかも、相手に伝わりやすい言葉や文体にする必要があるので、そこで何度も推敲が必要となる——、さらに具体的な例を提示したり、時には諭すように説明をしたり、より効果的な伝え方を選択しながら文章を練り上げていくことになる。
加えて、わたしは相手とのやり取りのリズムも重視するため、あまり時間を空けすぎると温度差が出てしまうことを懸念し、なるべく最速でこれらの作業を行うようにしているのだ。
そんなわたしの・・というか人間の努力を、AIは一瞬にして打ち砕いてしまうのだからやってられない——と思うヒトもいるかもしれないが、言いたいのはそこではない。わたしにできてAIにできないことは、"相手を思慮した言葉であるかどうか"という部分なのだ。
疑問に対する正しい答え、いうなれば合理的かつ効果的な言葉を生み出し組み合わせることは、AIのほうが確実でスピーディーだろう。そして相手がそれを求めているのならば、それこそAIに尋ねるほうが効率的といえる。
だが、人間である誰かに相談を持ちかけるということは、正しい答えがほしいわけではなく、相手とのコミュニケーションを重視している場合がほとんど。まれに、正しい答えがほしくて優秀かつ正義感の強い友人に質問をすることはあるが、それは正しさに加えて友人の個人的な見解や担保が欲しいゆえに、あえてその人を選んでいるわけで。
要するに、ヒトがヒトと話をするのは、純粋に答えがほしくてそうしているわけではなく、心に抱えるモヤモヤを聞いてもらうことで楽になれたり、形を成さないネガティブな要素を言語化することで整理できたりと、結論ありきの行為ではない・・という部分が重要だとわたしは思うのだ。
そして、わたしと過ごしてきた数時間のやり取りを、AIが叩き出した"最も本当っぽい空虚な文字の羅列"でまとめられたのでは、さすがにやりきれない。わたしの言葉は、真髄を貫くような鋭い刃物ではなかったのか? 隠されていた何かを抉(えぐ)り出すような、強引で残酷なやり方ではなかったのか? ——万人が納得できるようなテイの良い言葉に包まれて、「これこそが求めていた答えだ」となるのであれば、もはやわたしなど必要ない。なぜなら、身を削って絞り出したわたしの言葉たちを、無駄死にさせたくはないからだ。
とはいえ、AIに尋ねて納得のいく答えが出るのであれば、それはそれで効率的なので実践するべきだ・・とも思っている。
システム屋の社長がぼやいていたが、「いまどきはもう、AIありきでシステムを作らないとコンペで勝てないんだよ」という言葉のとおり、AIに任せるべき領域はAIに委ねることで作業効率が上がるわけで。
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人間というのは、どこまでいっても主観的で感情に左右される生き物である。そんな曖昧で繊細な生き物が発する言葉や判断が、「絶対的な正しさである」とはとてもじゃないが言い切れない。
しかしながら、そんな曖昧で繊細な部分こそが、ヒトが持つバッファーなのだと思う。あそびがあるからこそ、ガッチリと食い込む——不完全で危なっかしいところが、人間の良さなのではなかろうか・・などと考えながら、ざわつく心を落ち着かせるのであった。
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