ーー食事中の人には不快な内容かもしれないのでご注意を。
*
わたしは昨日、久しぶりに飲みすぎた。
「酔っぱらう」ということは過去に一度もないが、吐き気に襲われしばらく動けなくなることはそこそこある。
酒飲みに言わせると、
「気持ち悪ければ吐けばいい」
と安易に突き放すが、無理だ。それだけはできない。なぜならそこには、わたしなりのこだわりがあるからだ。
記憶に残る範囲でわたしは嘔吐したことがない。これはある種の自慢でもあり、ポリシーでもある。
幼い頃のわたしの象徴として母親がしょっちゅう、
「寝てると思ってそっと見に行ったら、吐しゃ物まみれで静かにじっとしてるのよ。普通、吐いたら泣くはずなのに」
という話をする。そのくらい手のかからない子だったという自慢らしい。
しかしその記憶はわたしにはない。つまり、その後わたしは一度たりとも嘔吐していない。
なぜそんなにも頑なに嘔吐を拒むかというと、自然の摂理に逆らいたくないからだ。
ーーいやいや、毒を吐き出そうとする反応は自然だろう。
それはその通りだが、わたしの中での「自然」は重力に逆らわないこと。
飲食物は口から入り、食道、胃腸、大腸などを通り必要な養分は吸収され、不要な残渣(ざんさ)が排泄物として体外へと押し出される。
この流れこそが「自然」で、逆流するなどということを許してはならない。
悲しいかなこの偏屈なポリシーのため、これまでもずっと、飲みすぎた後は命を賭す覚悟で嘔吐と闘ってきた。
そして久しぶりにこの恐怖と苦痛に襲われたのだーー。
とにかく逆流だけは許してはならない、下へ押し込むのだ。かといってキウイが胃袋でパンパンに膨れ上がった時のように、ジャンプするわけにはいかない。その衝撃で逆に嘔吐する可能性があるからだ。
とりあえずトイレでじっと考える。なんとか下から毒を出し切りたい。しかしこみ上げてくる吐き気はおさまるどころか激しさを増す。
恐ろしくなったわたしはソファに戻るとそのまま横になった。
(ダメだ、これでは重力を遮っている)
横になることはすなわち胃袋も倒すことになる。しっかりと上体を起こし、少しでも消化の邪魔をしないようにせねば。
(ふんぞり返って座るのと、前かがみで座るのと、どちらのほうが正しいんだろう)
なんの役にも立たないわたしは、せめて消化と肝機能の邪魔をしないことを念頭に細々と命をつなぐしかない。
だが、邪魔をする、しないどころではなく、吐き気の大波が襲ってくる。もはや喉あたりに異物感がある。すぐそこまでせり上がってきている証拠だ。
ーー強く念じろ。
こうなったらメンタルしかない。胃腸も肝臓も精一杯フル稼働している、みんな全力で戦っているわけだ。ならばわたしは祈ろう。
気持ちがわるいときに不安や恐怖を想像すると吐き気を助長するおそれがある。では明るく楽しいことを想像したらどうか。いやいや、とてもそんな雰囲気ではない。
例えばいま、大地震が起きたらどうする?
某隣国から核ミサイルを撃ち込まれたらどうする?
玄関のドアは鍵がかかっているにもかかわらず、誰かが目の前に現れたらどうする?
そんな、起こらないとは言い切れない現象を考えた。
(実際に、数時間後に地震が起きた)
気持ちわるい、などと泣き言を言っている場合ではない。逃げるなり、守るなり、生きるための行動をとらなければならない。
飲みすぎて吐きそうだ?そんなくだらないことで命を捨てるのか?よくぞそこまでちんけなカスに成り下がったもんだ。
気持ちがグワっと盛り上がった瞬間、スマホが鳴った。弁護士の友人からのLINEだ。チラっと見ると判例らしきものの画像が送られてきている。
「労基法40条の労働時間の特例の事業場の法的根拠って、どこにある?」
これは、口頭で説明することはできるが、法的根拠となるとやっかいな話だ。
労基法第40条の労働時間の特例とは、労基法施行規則第25条2(法別表)に掲げられる事業は、1週について44時間まで労働させることができるというもの。
その事業場が独立した事業場であることの要件として、場所的な独立性、営業面での独立性、一定程度の人事労務権限が当該店舗にあることが基準として判断される。
「店長に人事含めてかなりの権限を付与しないとならない、そんなこと法文には一言も書いてないよね?」
なぜこの緊急事態=嘔吐寸前に、わたしは追い込まれなければならないのだ。
だがこいつを怒らせるとやっかいだ。
とりあえず監督官から受けた説明を踏まえて、実務上はこのように判断していると伝える。
「趣旨はわからなくもないが、どこにその解釈の根拠があるのか」
この時点で、わたしはもう一つの吐き気に襲われていた。アルコールの吐き気を凌駕する、精神的な部分からくる恐ろしい吐き気に。
渋々、友人を納得させる根拠を探し始める。
ーーあれはたしか、安全衛生法関連の通達だったはず。
「事業場」というものの範囲を定めた法的根拠を示すことができれば、それを準用していると言える。わたしは血眼になって記憶の片隅にある通達を探した。そしてついに、探し当てた。
「昭和47年9月18日 発基第91号 都道府県労働基準局長あて労働事務次官通達」
この「労働安全衛生法の施行について」の通達のなかで、事業場の範囲について示されており、かつ、
「この法律と労働基準法とは、一体的な運用が図らなければならないものである」
と明記されている。
すぐさま友人に伝える。すると短く、
「39」
と返信があり、ミッションは終了した。
どっと疲れを感じたわたしは、そのままソファへもたれかかると天井を仰ぐ。
ーーあれ?
もはや吐き気は感じない。心拍数も落ち着き、頭痛もなにも起きていない。ごく普通の普段通りのわたしがいる。すこし腹が空いた気もする。
つまり、
極度の緊張と集中で、わたしの臓器は未知の力を発揮したのだ。通常時の何倍ものスピードで代謝や分解を促進し、あっというまにアセトアルデヒドを処理したのだろう。
ーー飲みすぎたら超真剣に仕事をする。
これが一番の特効薬なのかもしれない。
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