調和する二つは、完全なる一つに勝る

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私がパートナーを選ぶ際の条件はただ一つ。

「自分とは異なる人間であること」

これだけだ。

 

私の友人というのは、全員、私とタイプが違う。

まず見た目がしっかりしている。

温厚な性格で気遣いができる上に賢い。

もちろん世間受けもいい。

いつどこへ出しても恥ずかしくない人材ばかり。

 

そんな優秀な友人らで自らを包囲した私は最強だ。

私がどんなに馬鹿でヤバい奴だったとしても、

 

「でも●●さんのお友達でしょ?じゃあ・・」

 

となる。

私一人の力では突破できない障壁も、友人らの評価でクリアすることができる。

 

そのおかげで私は、気持ちよく自分勝手に生きていられるのだ。

 

 

柔術は、攻め方が2種類ある。

トップから攻めるか、ボトムから攻めるか。

 

トップから攻める場合、重力を味方につけ全力で相手をつぶしにいく。

ボトムから攻める場合、荒れ狂う鬼の足をすくうかのようにシレっと形勢を逆転させる。

 

攻め方にはそれぞれの特徴があり、身体的な能否もふまえて選択をする。

 

結論から言うと、私はトップからでなければ勝てない。

 

だが、憧れはある。

 

体が固い私はボトムでの攻めが苦手。

それでも「柔術といえばベリンボロ」と言うくらい、柔術ならではのボトムポジションがあり、それに憧れた私はベリンボロの練習をした。

 

何か月かトライした結果、頸椎を痛めた。

 

やりたい気持ちだけではベリンボロを手に入れることはできない。

とくに体の柔軟性が絶対条件のこの攻撃は、無理をするとケガにつながる。

よって、残念ながらベリンボロは諦めた。

 

いつだってそうだ。

スマートでカッコイイことは私には不向き。

泥臭くカッコ悪いことしか選べなかったし向いていなかった。

 

結局、柔術もフィジカル頼りでガンガン攻める、なんの取り得もない無骨で一辺倒な攻撃しかできない。

ベリンボロのようなスマートでカッコイイ攻め方に憧れたし、挑戦もした。

 

だが結果は、ケガを負っただけで一歩も前へ進めなかった。

 

 

ピアノもそうだ。

大学受験以来、ピアノを再開して一年が経過する。

この一年間ずっとバッハとシューマンを、一瞬モーツァルトを弾かされただけで。

 

私が得意なのは、ショパンやベートーヴェンといったコテコテに弾きごたえのある曲。

だが、つかみどころのないふわっとした曲や、そんな指示は書かれていないがそれも読み取った上で弾くのが当然だ、と言われるような意味不明な曲ばかり練習させられてきた。

 

この一年間、地中でもぞもぞしていた気分だ。

弾きにくい曲ばかりを毎週弾かされて、なぜ私はピアノで苦痛を味わっているのか不思議だった。

 

しかし昨日、ようやく3冊の練習曲が終わり次のフェーズへ進めることとなった。

 

「よかったわね、あなたの好きな曲が弾けるわよ」

 

無邪気に笑いながら先生は言う。

そうだ、あえて苦手な曲ばかり弾かされた一年だったのだ。

 

私にショパンを弾かせてくれたら見事に弾ききるだろう。

あのバッハのような醜態は晒さないだろう。

 

早く私に水を与えてくれ。

 

 

ピアノ演奏は、一人で弾く以外にオーケストラと演奏する「コンチェルト」や、1台のピアノを2人で弾く「連弾」、そして2台のピアノを2人で弾く「ピアノ・デュオ」などがある。

 

なかでも連弾は1台のピアノを4本の手で弾くため、2人の息がぴったり合うこと、そして同じレベルの演奏技術が求められる。

 

それに比べてピアノ・デュオはお互いの個性がぶつかり合い、弾く側も聴く側も、毎回異なる演奏にのめりこめるのが醍醐味。

 

どちらも一人の演奏より音の数も音量も音楽の幅も広がり、聴きごたえがある。

 

だが、より情熱的で火花を散らす展開となるのはピアノ・デュオ。

 

たとえばラフマニノフの組曲第2番第4曲「タランテラ」。

この華麗で技巧的な難曲を、個性の異なる2人が壮大に弾き上げたらそれはもう鳥肌モノ。

 

お互いにそれぞれ主役となるパート、引き立て役となるパート、そして重なり合うパートという役割があり、それらの責任を果たすことで2台ピアノ(ピアノ・デュオ)が完成する。

 

より魅力的でスケールの大きな曲に仕上げるには、まるで正反対の性格、思想や技術を持つピアニストで弾くのが面白い。

 

作られた音ではない、ぶつかり合うことで調和する偶然の産物ーー

 

こんな演奏、似た者同士では決して生むことはできない。

 

 

柔術でも団体戦があったら面白いだろう。

攻撃に特徴のある選手でチームを組み、それぞれが得意とする攻防を繰り広げる。

 

みんながみんな、キレイでスタイリッシュな柔術をするわけではない。

私のような不格好で野生的な選手がいたほうが、より見ごたえのある展開が期待できる場合もある。

 

 

個性的な人間が集うからこそ、一人では成し遂げられない大きな成果が生まれる。

 

そこには協調の必要性も、足の引っ張り合いも存在しない。

それぞれが各々の進むべき方向へ突き進むだけ。

 

柔術の醍醐味であるベリンボロが得意な選手はベリンボロを。

しかし私のようにそれが不向きな選手は、己が得意とする猪突猛進なオールドスタイルを貫けばいい。

 

なにも、ベリンボロに近寄る必要はない。

そんなことをすれば、私の良さが半減する。

 

この圧倒的なフィジカルを駆使ししたダイナミックな攻撃こそが私の持ち味であり、フィジカルモンスターの称号。

私からすればベリンボロなどお道化よ。

この泥臭くもパワフルな攻撃で、ベリンボロなど叩きつぶしてくれるわ。

 

 

社会生活を送るうえで、適材適所は外せない。

誰もがオールマイティーである必要はなく、スペシャリストの集まりであればいい。

 

私の友人は皆、その道のスペシャリスト。

そして私に求められる立ち位置は「究極にヤバい奴」というレアなポジション。

 

これこそが私の役割であり、バランスを保つ秘訣。

そう、私がいるからこそ友人らは引き立ち輝くのだ。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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