暴飲暴食が過ぎる私は、そのうちインスリンが不足するのではないか?という強迫観念に駆られている。そこで昨日から、ちょっとした距離ならば足を使って歩くことにした。とはいえ昨日の今日の決意なので、明日はもう考えが変わっている可能性もあるのだが。
「予定」というのは、始まりはシビアだが終わりは緩いもの。私は今日、月額報酬八万円のところ、八十万円と誤って申請してしまった案件について、訂正願を届出るために中目黒にある年金事務所へと向かった。
いち早く目的地へ着くためにも、行きは当然の如くタクシーを使う。そしてスムーズに到着し、スムーズに訂正願を提出し、スムーズに建物を後にした私は、その後に急ぎの予定がないことに気がついた。
Googleマップで帰路を検索するも、乗り換えの調子が芳しくない。最低でも2度の乗り換えが必要で、ぐるっと遠回りをするか、あるいは電車からバスへと乗り継ぐか、いずれにせよ不便なルートである。さらに乗り換えなしを選択する場合、恵比寿まで歩いてバスに乗るしかない。
(健康のためにも、歩くか)
梅雨のせいで湿度は高いが、天気のいい日は外を歩くのも悪くない。むしろ滅多に歩かない私にとって、歩かなければ移動ができないという状況は都合がいい。
こうして私は、15分かけて中目黒から恵比寿まで歩くことにした。
歩くということは、車や電車の移動に比べて周囲の建物や人間に目がいくもの。ふと見上げると、23区内では珍しい露天風呂のある銭湯・光明泉や、昔はしょっちゅう訪れていたエビスジーンズなど、懐かしい場所を通り過ぎていく。
そういえば学生時代、代官山こそがオシャレのメッカだった。渋谷駅から歩いて代官山へ向かうなど、移動のカネはケチって足を使っていた頃を思い出す。
だが今となっては信じられない過去である。近場の移動はタクシー一択。ちょっとでも歩かずに済むのならば、そこは渋々カネを払うようなゲスな大人に育ってしまったのだから。
そんなことを思いながら、恵比寿駅方面へグイグイと進む。気温27度、日差しは雲に隠れているにせよ、あまりの蒸し暑さにマスクをずらす。
日焼け防止にはマスクが役立ちそうな気もするが、呼吸や暑さに対しては完全に敵である。こんなもので熱中症にはなりたくない。
そしてアゴマスクで歩いていると、やはり他人の目が気になるもの。そこで私は通り過ぎる人々のマスク状態を観察することにした。
その結果、普段いかに人間観察をしていなかったのかがよく分かった。もしくは恵比寿や中目黒界隈をうろつく人々が、そういう傾向だったのかもしれない。とにかく、予想以上にマスクを外している人が多いのだ。
とくに外国人に至っては、百パーセントの確率でマスクをしていない。もはやアゴマスクどころの話ではない。耳にも首にも、マスクはぶら下がっていないのだから。
そしてもう一つ、百パーセントの確率でマスクを着けていないカテゴリーがあった。それは赤ちゃんだ。ベビーカーでチヤホヤされる乳幼児らは、誰一人としてマスクを着けていない。
私はそこに、一つの真実を見た気がした。
言葉にすると揚げ足を取られたり反論されたり、なかなか言論の自由どころではない世の中だが、少なくともあの赤ちゃんたちがマスクをしていないことこそが、なんらかの真実なのではないかと感じた。
赤ちゃんらにとって、マスクをすることよりも優先すべき事情がある。大人に比べてすべての器官が未熟な彼らは、当然ながら気道も狭い。そこへきてマスクなどで呼吸を遮れば、たちまち体調を崩してしまうだろう。熱中症のリスクもあるし、窒息の心配もある。
そしてそのことについて、誰一人として反論する者も攻める者もいないわけで。
*
真夏に近い暑さの屋外で、額の汗を拭きながら大きなマスクで顔を覆っている小学生を見ると、これが本当に正しい姿なのだろうかと疑問を感じずにはいられない。
そんな自問自答を繰り返しながら、私はアゴマスクのまま恵比寿駅へと歩き続けた。
しかし通行人が私をジロジロ見るのは、果たしてアゴマスクだからなのか、それとも腕の筋肉に目がいったからなのかは分からない。
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