切っても切れない"ながら生活"の弊害

Pocket

 

集中力に欠けるわたしは、何をするにも「ながら作業」になってしまう。たとえば道を歩くにしても、音を聞かずにはいられないわけで、風の声や雑踏に耳を傾けることはない。

だがイヤフォンが骨伝導仕様のため、嫌でも生活音的な雑音は入って来る。よって、結局は二種類の音を聞きながら移動していることになるのだが。

 

よく「音楽を聴いていると気分がリラックスする」というが、それはすなわち集中していない証拠ともいえる。

たとえば、数字を入力するだけの単純作業などの際に、ただひたすら脳内を空っぽにするべく、音楽を聴きながら指を自動的に動かす・・といった使い方は正しいと思うが、思考力を求められる作業では逆効果。

 

そもそも、シングルタスクやマルチタスクといった表現があるが、人間は基本的にシングルタスクだと思う。なんせ、一つのことを追求するのに二つ以上に思考を割くことはできないからだ。

そして、短いスパンで作業を切り替えるならば、その瞬間は一つのことに時間と集中力を費やしているわけで、結局はシングルタスクの積み重ね・・ということになる。

 

ところが、常日頃からなんらかの音を聞く習慣ができていると、いつなん時でも「音を流しながら生活する」ということが、当たり前となってしまうから恐ろしい。

だからこそ、シーンとしているとソワソワするというか、エアコンや冷蔵庫のモーター音だけだとどうも落ち着かないのだ。とはいえ、遠くからいきなり「ウィィィン」というウォシュレットのノズルオート洗浄の音が聞こえると、それはそれはギクッとするわけで心臓によくないのだが。

 

そんなこんなで、仕事中もアレクサでYouTubeやNETFLIXを流しつつ"ながら作業"を続けてきたわたしは、ピアノの練習中すらもソレを敢行していた。

 

(無心で繰り返す練習だから"ながら"でいいだろう・・)

指の練習というか、同じことを何十回も繰り返すだけの練習の際には、ただでさえ集中できないわたしは鍵盤と向かい合うことが苦痛となる。

そのため、指や腕の動きは脱力させることに専念し、その練習中はNETFLIXを視聴しながら乗り切っていたのだ。

これがいいことだとは、当然ながらわたし自身も思っていない。だが、もはや習慣化されてしまった"ながら生活"の弊害は、そう簡単には取り除くことができないわけで、ダメなことだと知りながらも呪縛から逃れられずに今に至るのであった。

 

ところが今日、ふと思うところがあったわたしは、両耳にヘッドフォンをかぶせるとピアノの音だけを聞きながら、淡々と指の脱力練習を行ってみた。

そして、同じことの繰り返しを30分ほど続けたところで、自分の指が脱力できる感覚を「意図的に再現すること」に成功したのである。

 

成功したとはいえ、残念ながら毎回再現できるわけではない。たまたま「おぉ、これは!」という感覚を掴み、それをあえて繰り返すことができた・・というだけ。

これが毎回再現できれば最高なのだが、少なくとも、自分の内面に思考を巡らせなければ触れることのない感覚だったので、一度でも体験できたことに驚きと喜びを感じたのであった。

 

(・・もしや、もっと早い時点で指の動かし方に集中していれば、すでに習得できていたのでは)

あくまでタラレバの話なので、今日ようやくたどり着いた境地なのかもしれず、断言することはできない。だが、普通に考えて「指の動きに集中していれば、もっと早くに深い部分へ到達した可能性は高い」ということを、認めざるを得なかった。

 

——当たり前だが、「ただ指を動かしてるうちに、いつかできるようになる」なんてラクな現実が待っているわけがない。目では見ることのできない部分に目を向けることで、見えない何かを知ることができて、それこそが成長のきっかけになるのだろう。

 

 

よくよく考えると、長時間自分自身と向き合うことのできないわたしは勝負事にも弱い。

敵を知る前に己を知ることこそが、勝負の鉄則。だがわたしは、己を知ることをあらかじめ放棄しているわけで、そんなわたしが勝てるはずもないからだ。

 

(あぁ、せめて自分の指くらいは自分でコントロールできるようになりたいな・・・)

そう願いながらも、アニメ・サイコパスを見ながらこのコラムを書いているわたしは、心意気と口だけが達者な"ソフト老害"のまま生きていくのだろう。

 

サムネイル by 希鳳

Pocket