昨日、競泳日本一決定戦である「第99回日本選手権水泳競技大競泳」を観戦したわけだが、水泳というのはあまりに個体差がものをいう競技ではないかと、見ているだけで寒気がした。
なぜなら、選手は薄っぺらい水着一枚でほぼ裸状態。そして水の中へ飛び込めば、体以外に武器も道具もありゃしない。己の腕と脚を駆使しながら水中を前進するしかなく、こうなれば一発逆転といった奇跡はほぼ期待できないはず。
大原則として、どんな競技でも選手自身のポテンシャルが重要なのは言うまでもない。だが、たとえばゴルフならばクラブやボール、クレー射撃ならば銃や弾など、もっと明らかな差が出るのは、バイクや車のレースだろう。
記録を競う競技においては、自分自身に加えて何らかの道具やアイテムが存在する。そして実力が同等であれば、使用するアイテムの性能によって最後の一歩に差が出るものだ。
それなのに競泳ときたら、言葉の通り裸一貫で戦わなければならないわけで、つまりは人間同士のポテンシャルのぶつかり合いでしかない。
(お、林テレンプの選手だ!)
女子50メートル背泳ぎで優勝した高橋美紀さんは、林テレンプ所属の水泳選手である。正直、その瞬間まで彼女を知らなかったが、場内スクリーンに「林テレンプ」の文字が出た瞬間に、思わずカメラを向けてしまったのだ。
林テレンプは、名古屋に本社を置く自動車内装部品メーカーで、自動車用フロアカーペットでは国内トップクラスのシェアを誇る企業である。さらに、スポーツ活動推進の一環として、オリンピックやパラリンピックを目指すアスリートを雇用・サポートし、従業員らが試合会場へ応援に駆けつけるなど、企業全体でスポーツ活動を支援しているのだ。
友人の折原梨花は、JOCのアスリート就職支援制度「アスナビ」を活用して、林テレンプとの縁を手に入れた。今年で入社4年目を迎える彼女だが、日々練習に没頭できる環境を確保できたことは幸運である。
そして彼女が林テレンプへ入社したことで、わたしも林テレンプという企業を知った。その流れから、競泳会場内で林テレンプの文字を見つけて、慌ててカメラを向けたというわけだ。
ちなみに、隣に座る友人にも林テレンプについて説明してあげたことから、小さな影響力かもしれないが、アスリートの宣伝効果は抜群だったといえるだろう。
それにしても、水泳競技のような体一つで戦わなければならない競技は、万が一の大逆転というのは望みが薄い。それでも、実業団などで練習を重ねて試合に挑む選手たちのモチベーションというのは、いったいどこにあるのだろうか。
そこで、大学まで陸上一本に身を捧げた友人へ、その心境について尋ねてみた。
「陸上は競技人口も多いから、必ずしもオリンピックだけを目指しているわけじゃないと思うよ」
なるほど。陸上はトラックとフィールド、さらにマラソンや駅伝まで種目が豊富。そして実業団となると、ほとんどが長距離に集約されるのだそう。たしかにニューイヤー駅伝など、テレビ放映される上に所属団体の名前が全国的に流れるチャンスでもある。
「あとは、陸上競技そのものが好きだったり、自己記録を更新することがモチベーションだったりと、自分自身に宿る部分が大きいんじゃないかな」
対人競技とは違い、陸上も競泳も記録との勝負になる。無論、ライバルに勝つことを目標とする人もいるだろうが、基本的には記録や順位で勝敗が決まるため、他人との勝負ではなく自分自身の問題となる。さらには、競技が好きでなければ練習への熱意や工夫が途絶え、成長は止まってしまうだろう。
そういう意味では、自分ありきの孤独で過酷な競技である。
最後に、意地悪で冷酷な質問をぶつけてみた。
「オリンピック代表には明らかに届かない記録だったとしても、それでも競技を続ける人が多い。選手本人もだけど、所属団体はどういう思いでサポートしてるんだろう?」
すると彼女はこう答えてくれた。
「あくまで私の考えね。選手目線で、現時点の実力ではオリンピックで勝負にならないのなら、良い意味で別次元で捉えているんじゃないかな」
「そして企業目線でいうと、さっきも言った通り陸上の競技人口は多い。だからこそ、勝ち負けだけでなく、選手の育成や支援という部分でのアピールは効果があると思うよ」
まさにその通りかもしれない。日本代表あるいは優勝者以外は、全員がただの人となる。その中でも「惜しい人」から「箸にも棒にも掛からない人」まで幅広く存在するが、レベルは違えどトップを手に入れられなかった事実に変わりはない。
だとしても、いろんな意味での頂点を目指して切磋琢磨するアスリートを、企業がサポートしてくれたら心強い。対外的には社会貢献にもつながるし、内部的には従業員らのスポーツへの関心が増すわけで、相乗効果しかないからだ。
資本主義経済においては、金銭至上主義こそが正義と思われているが、実際に、人間にとっての幸せはそんなところにはない。
100分の1秒に人生を賭すアスリートの姿に、心打たれないにしても憧れたり嫉妬したりと、競技者に対して何らかの感情を抱くのが一般人。そして己が競技者になれない分、ファンやアンチとなって競技に参加しようとするのだ。
とどのつまりは真剣勝負こそが、元来人間に備わった本能的な行為なのかもしれない。生きるか死ぬかにはじまり、人それぞれのレベルで勝負が存在するわけで、戦わなくなったらそれこそが死なのだ。
・・・などと偉そうなことを考えながら、表彰台の真ん中で眩しい笑顔をこぼす選手に、精一杯の拍手を送るのであった。
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