二年に一度のピアノ発表会が終わり、「これでようやく、手指を労わったり音楽のことだけを考えたり『ピアノ漬けの生活』とはおさらばだ!」となりそうなところ、じつは未だにこの流れが継続中であるわたし。
そのため、発表会当日の夜、帰宅してすぐさま(実際には、プリンやロールケーキを掻っ込んだ後だが)ピアノの蓋を開け、一人せっせと練習をしていたことなど誰も知るまい。
いったいなぜ”継続中”なのかというと、本番当日に会場へ来られなかった友人らのために、スタジオやホールを借りて「ミニリサイタル」を開く予定があるからだ。
とはいえ、事前に決まっていたのは一人・・というか一家族のみで、彼らの住まいの近くにたまたまグランドピアノの練習室があり、そこを借りて「生演奏を聴いてもらおう」と思ったわけだ。
いかんせんゴールデンウイークというのは、家族全員で遠出をしたり子どもを連れて帰省したりと、連休とはいえなかなか自由がきかない束縛ウィークでもある。そのため、わたしのステージを楽しみにしていてくれたにもかかわらず、会場を訪れることができないパパやママのために「出張リサイタル」を提案したのである。
本番が終わり、どうにか形にすることが出来てホッとしたのも束の間、技術的に弾けない部分を「ごまかしのテクニック」でやり過ごしたわたしは、該当箇所を改めて分解し、楽譜に書かれた指示どおりに弾く練習を始めたのだが、その作業は今まで以上に精神的な疲労を感じるものだった。
ごまかす・・というのは、本人にとってみれば非常に容易いことである。なぜなら、「ごまかす」という言葉を都合よく解釈すれば、「自分がやりやすいようにアレンジする」といえるからだ。
「わたしが編曲したのだから、わたしに弾けないはずがない」・・そんな屁理屈をこねる暇があるなら、最初から譜面どおりに弾く練習をしろよ!とセルフ突っ込みをしつつ、改めて難曲と向き合う時間が始まったのである。
それにしても、納期に間に合わせるべく強引かつ無理くり完成させてしまった構造物を、今一度自らの手で破壊した後にあらためて組み直す——という作業は、思っている以上に勇気がいるし時間がかかる。
(なにも楽譜に忠実にやり直すことはないだろう。どうせあと数回弾いたらお蔵入りなんだから・・)
内心そう思うのだが、いかんせんその”ごまかし”を許容できるほどの度胸が、わたしにはなかった。
いつだったか師匠に言われた言葉を思い出す。
「作品を通じて、ショパンやラフマニノフが見て聞いて感じていた風景を、現代のわれわれが疑似体験させてもらう・・それが『曲を弾く』ということなのよ」
それなのに、自己満足として弾きやすいようにアレンジしてしまったのでは、疑似体験どころか作曲者を冒涜する行為であり不敬にあたる。そう、いつだって曲を弾くのは自分のためではない。わたしの演奏を聞いてくれる誰かのためであり、作曲者が楽譜にしたためた景色や情感を彼ら彼女らに伝えることが、ピアノを弾くという行為の本質なのだ。
そう強く自分に言い聞かせると、改めて楽譜と対峙したわけだが、そんな矢先にまさかの「依頼」が飛び込んできた——なんと、出張ミニリサイタルの追加公演の依頼ではないか。
「どうせなら生演奏が聞きたい」誰もがそう思うのだろう。そして、わたしごときで良ければその願いを叶えてあげたいと思うわけで、さっそく依頼主の近所のスタジオを探すことにした。
とその時、新たな通知が届いた——なにっ、またもや別口で追加公演の依頼が・・・!!!
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ピアノ発表会は二日前に終わったのだが、なぜかそれを機に誕生した「出張ミニリサイタルツアー」はむしろこれから始まるわけで、プロのピアニストも顔負けの過密スケジュールに、ド素人のわたしはただただ必死に練習を続けるのであった。











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