音楽——延いては芸術という分野は、あくまで主観的な感覚で楽しむものであり、自分にとっては「刺さるスポット」であっても、それが他人にも共通するとは限らない。それぞれにとっての小さな一点が集まり、結果として「素晴らしかった」という感想になるわけで。
そして芸術、殊に音楽に関しては、演奏者のみならず聴く側の意識というか「周波数をキャッチできる耳」があるかないかで、受け取り方が変わる。この事実に気付かされたのは、ピアニストの黒木先生の発言だった。
「音の高低は、横ではなく縦に広がるものだ」
言われてみれば当たり前である。なんせ「音の高さ」と言っている時点で、高いか低い・・すなわち”縦の変化”について触れているのだから。
ところが、ピアノという楽器は水平にできており、右へいけば高音が、左へいけば低音が出る仕組みになっている。よって、高い音を出すには右側の鍵盤を押す必要があり、そのためには腕が物理的に右へ移動し、釣られて意識も自然と横へ広がり——そうなると、肝心の「響き」が生まれないのだ。
響きは天へ向かって高く伸びるもので、理屈ではなく感覚的に「美しいもの」だと認識されているが、それを言葉で表現するならば「周波数の違い」ということになる。
ヒトが心地よいと感じる周波数の音は、いつの間にかリラックスできてたり夢の世界へ引き込まれたりするもの。しかしながら、この周波数をキャッチすることができなければ、そもそも聞こえていないのと同じなのだ。
街中でネズミやカラスの侵入を防ぐために発せられている「モスキート音」がいい例だろう。ヒトには聞こえないが小動物に影響のある周波数の音を流すことで、店舗の入り口を開け放っていても害獣・害鳥の入店を拒否することができる。
(・・のはずだが、なぜかわたしはアレに毎回引っかかるので、入店できない建物がいくつも存在する。つまりわたしも害獣認定されているのだ)
あのモスキート音が聞こえる生き物は影響を受けるが、聞こえない者にとっては空気でしかない。これは「聞こえなくていい例」ではあるが、言いたいことの方向性はこのような感じ。
要するに、「美しい」と感じる音の周波数を聞き取る耳があるかどうかが、音楽を堪能できるか否かの違いとなるわけで、それはすなわち「聞き手の耳を鍛えること」が重要。
前出の黒木先生は、
「高く伸びる美しい音色を、聞こう(感じよう)とすることで、その周波数が聞こえるようになる」
と仰っており、これが正にそのとおりだから驚きなのである。打鍵する音は同じ「シ」であっても、その音を聴こうとする”自分の在り方”が変わるだけで、感じる音色や響きが明らかに変わる——弾き手も勿論、美しい周波数の「シ」を出さなければならないが、それを聞き取れる耳が聞き手になければ、単なる「シ」という音だと認識するだけで、音色や響きを楽しむことはできないのである。
ちなみに、「その耳を作ること」は難しいことではない。なぜなら、美しい音色すなわち生の音に触れる機会を持てばいいからだ。
例えるならば「料理」が分かりやすいだろう。ジャンクフードしか食べたことのない者に、厳選・吟味された食材や調味料に加え、料理人の卓越した調理技術と経験によって完成した一皿を与えたところで、それがどれほど絶品であるのかなど知る由もない。
だが、良いもの、優れたもの、体が欲するもの・・表現は異なるが、本質的に美味いと感じる料理を食べ続けるうちに、素材の味や調理方法の違いが分かるようになり、最終的には本物の美味さにたどり着く——これは、センスや才能の話ではなく、ヒトならば誰しもが兼ね備えている感覚の話であり、それが目覚めているかいないかの違いなだけなのだ。
その証拠に、とある料理人にピアノ演奏を聴いてもらったところ、とても腑に落ちた表情で感想を述べてくれたのが印象的だった。そう、ごくわずかな小さなパーツの積み重ねで、料理も音楽も完成するのである。
*
「オレは音楽のことが全然分からないから、どれがいいとか素晴らしいとかが分からない」
そう言いながらハイボールを煽る友人に向かって、どうにかして音の楽しみ方(それこそが「音楽」!)を伝えようとするが、なかなかピンとくる答えを出せないわたし。
そりゃそうだ、本人にその気がなければ——美しい音色の周波数をキャッチする耳を作らなければ、良いか悪いかの判断すらできないわけで、彼自身が前のめりになって響きを感じようとしなければ、いくら外野が正論を叩きつけたところで馬の耳に念仏。
それでもいつか、彼にも音楽の良さが体感できる日が来るよう、わたしはお節介焼きを続けようと思うのである。











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