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成長を感じる瞬間っていつだろうーー。

成長というと語弊がある。生命現象の営みとでもいうべきか。あぁ、わたしはたしかに生きている、しかも無駄に新陳代謝をくり返していると実感することがある。それはいつか。

 

ズバリ、爪が伸びたときだ。

 

物心ついた頃から「爪切り」を使っていない。といっても手の爪に限った話だが。

幼少期からピアノを習っていたわたしは、誰に言われたわけでもないが「爪の長さがピアノのパフォーマンスを左右する」と知っていた。

そしてその繊細さは「爪切り」などという、ニッパーの仲間のようなおおざっぱな道具には任せられないことも承知していた。それゆえ、爪切りに付いている「ヤスリ」の部分で2~3日に一度のペースで爪を整えた。

 

途中、爪切りのヤスリよりも「ダイヤモンドヤスリ」の方が削り心地が良いことに気付き、そちらを愛用し始める。

 

 

本気でピアノを習っていた頃は、鍵盤に当たる指先のタッチに敏感で、角度にもこだわりがあった。

だが今は、余生の暇つぶしがてらの指のトレーニングゆえ、あの頃の崇高なこだわりなど微塵も残っていない。しかしクセというかルーティンで、爪は「やすり」で整えている。

 

レッスン当日になると付け焼刃で練習をするわたし。

ーーなぜ普段から1時間でもいいから練習をしないのか、誰かに尋ねてもらいたい。なぜ前日ではなく当日に練習をするのか、その真相を暴いてもらいたい。思うにただのバカだろう。

 

1週間ぶりにピアノの蓋を開ける。とりあえずは練習曲でも弾いてみる。

(ムッ。爪が長い)

左手の親指の爪がやや長い。鍵盤に触れるたびにカツカツと不快な音が鳴る。爪が当たらないように指の角度を調整するもなかなかうまくいかない。正直、ほかの爪も若干長い。それはもう0.1ミリ未満のレベルだが、わずかな違和感という気持ちわるさ。

こうなると爪の長さに気を取られて練習どころではない。すぐさまヤスリを取り出し、爪を研ぎ始める。

 

ーーそういえば柔術の練習で珍しい経験をした。

わたしの爪が「長い」という状況は、ご覧のとおり決してありえないのだが、爪とゆびの間の肉ごと爪を持っていかれたことがある。つまり、短い爪が剝がれたのだ。

爪の先の白い部分すら見えないほどの短さの爪が、めりっとイヤな音とともに剥がれた。

(こうなると、爪が剝がれることを防ぐのは不可能だな)

半分くらい剥がれた爪を見ながらしみじみと思った。

 

爪を整えながら思う。結局「キワ」が重要なのだ。ピアノの鍵盤をゆびの腹で押していると思ったら大間違いで、爪寄りの先っぽ、ほぼ指の先端が触れている。そして弾き方によっては爪が鍵盤に当たる。

パソコンのキーボードを力強く押し込む必要はないが、ピアノの鍵盤はそうする必要がある。その結果、ゆびと爪のキワで押し込むように弾く場合があるのだ。

 

さらに「キワ」は爪の長さが0.1ミリ違うだけでも感覚が変わる。同じ弾き方をしても昨日と今日とでは確実にちがう。

そんなとき「あ、爪が伸びたんだな」と、新陳代謝の無駄な凄さを実感する。

 

ピアノを弾くに際して指先は「武器」といえる。

武器の整備を怠る軍人はいない。相棒に対するメンテナンスは欠かさず、有事に備え万全のコンディションで待機する。

ボケっとしていれば背後から一撃で殺られる世界。無惨な死に方をしたくなければ、常日頃から自分自身と武器の状態を確認・維持しなければならない。

 

ーーこれほどまでに鋭く、繊細な感覚を持ち合わせたわたし。

ふと、しばらく風呂に入っていないことに気がつく。レッスンで先生の家を訪れるのに不潔な状態ではまずい。ピアノの練習より、まずは身体の清潔が優先だ。

 

わたしはピアノの練習をあきらめ、3日ぶりの風呂へと向かった。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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