近所に住む友人が、餌付け…、いや、手作り料理をこしらえてくれた。
本日のメニューは、柿の生ハム巻き、ロールキャベツ、タコスの三品。どれも堅苦しくなく、それでいて美味そうな食べ物である。
とはいえ、柿の生ハム巻きには甚だ疑問が残る。
新鮮で甘いフレッシュな柿は、それだけで食べても当然ながら美味い。仮に、百歩譲ってホイップクリームと一緒であっても、それはそれで美味いだろう。
にもかかわらず、何故あえて生ハムなどを巻くのだろうか。
そうだ、これには前例がある。言わずもがな、メロンの生ハム巻きだ。
あれこそが諸悪の根源。甘くてまろやかな高級メロンを生ハムで巻くことにより、メロンの旨味は半減し、おまけに噛みきれなくなる。その結果、無理やり一口でしょっぱいメロンを食べなければならないのだ。
思うに、メロンにとってもいい迷惑である。自分一人でも十分チヤホヤされるポテンシャルを持っているにもかかわらず、あえて生ハムのような異質な民族衣装を着せられるのだから。
ファッションショーならまだしも、フィットネスのコンテストならば、生ハムのせいで失格である。
さらに今回の柿には、生ハムの上にオリーブオイルと粗びきのブラックペッパーが散りばめられている。
この「洒落た組み合わせ」がマズイはずもないが、それでも生ハムを引っぺがして、柿を洗って食べてやりたいものだ。
よりによって、このようなお召し物を着せられるとは――。
とそのとき、わたしはとんでもない事実に気がついた。
今回の餌付け三品は、どれも上着を羽織っているではないか!
ロールキャベツは、合いびき肉の周りをしんなりキャベツが包んでいる。
タコスに至っては、タコミートやレタス、トマトなどをトルティーヤで包んだ食べ物である。
つまりいずれも、何らかの皮を纏(まと)うことで完成しているわけだ。
(な、なるほど!だからあえて、柿に生ハムを着せたわけか!)
友人の粋な計らいに、驚くとともに感動するわたし。
気がつけば、季節は霜月の半ばに差しかかっている。われわれ人間だけでなく、食材たちも寒かろうと上着を羽織らせたのだろう。
よくよく考えれば、彼女にはそういう優しさがある。
どこぞのインコが迷い込んできたときも、献身的に世話をしつつ、必死に飼い主を探した。そしてインコに愛着が湧いてきたころ、本来の飼い主が見つかった。その結果、喜びつつも泣く泣く、インコと別れを告げたのである。
そんな人情味から、今回の料理たちにも服を着せてやったのだ。
となると、これはもはや単なる料理の域を超えている。言うまでもなく料理上手の彼女は、味のおいしさに加えて、食材にアイデンティティーを与えたのである。
季節が冬だから、上着を用意したのかもしれない。はたまた、裸のままでは恥ずかしいだろうと、衣装をまとわせたのかもしれない。
たしかによく見ると、この柿はその辺に転がっている柿よりも美しく、堂々とした風貌である。シルクのような薄いピンクのカーディガンを羽織り、さらに、オイルのなめらかな輝きと、ブラックペッパーのスパイシーなアクセントが、ファッションリーダーとしてのセンスを際立たせている。
もはや「柿」などと軽々しく呼んではならない。上品で高貴なオーラを放つこの果物は、そう、「パーシモン」である。
このような視座で、改めてロールキャベツとタコスを見ると、さらに得心が行く。
ロールキャベツなど、表面の分厚いキャベツはまるでダウンジャケットのよう。ホカホカの防寒具をまとった合いびき肉は、幸せそうにジューシーな汁を垂らしている。
トルティーヤという名の上着が必須アイテムのタコスは、他の二人を鼻で笑うかのように、風格漂う寝姿を披露する。ドデーンと横たわるその姿は、「みんな、俺の上着を見ろ!」と言わんばかりの、自信と威厳に満ち溢れていた。
(あぁ、料理には作り手の人間性がつぎ込まれるものなんだな・・・)
妙に納得しながら、立派な料理たちを瞬く間に胃袋へと送り込んだのであった。
コメントを残す