(マズイぞ、なぜ直前になってこんなことになるんだ・・・)
今日は、ピアノの先生の先生・・すなわち”師匠”のレッスン日である。
師匠の前では、いわゆる「曲」を弾くことはない。なぜなら、曲を弾くためにはそれ相応の指や腕、体の準備が必要なわけで、それらが整っていないにもかかわらず、音符を追いかけるだけで弾いたつもりになっていたわたしは、師匠の元で地味かつ当たり前な基本練習を繰り返すのであった。
だが、地に足のついた一歩でなければ意味がないので、なかなか改善されない癖や性格・性質を恨みながらも、粛々と泥沼をつき進むわたしは、この歳になって「今までできなかったことが、できるようになる喜び」を、レッスンのたびに感じるのであった。
にもかかわらず、貴重な師匠のレッスン当日に、あろうことか両腕が「謎の筋肉痛」に見舞われたのだ。
そもそもわたしは、筋肉痛にならないフィジカルを保有しているため、どれほど激しい運動をしても身体に異変は起こらない。それなのに、なぜか今日に限って前腕・・しかも背側(手の甲側)に、明らかな筋疲労を感じるではないか。
昨日のみならず、ここ数日で極端に腕を酷使した記憶はない。むしろ、親指を痛めていることから、なるべく腕を使わない生活を送ってきたはず。しかもこの一週間、時間さえあればせっせとピアノの練習を重ねてきたというのに、よりによってレッスン当日に前腕に異変が起きるとは——まぁ、人生とはこんなものである。
というわけで、謎の筋肉痛を抱えたまま師匠の元を訪れたわたしは、事前にエクスキューズを伝えた上で、この一週間の練習の成果を披露した。無論、自分自身では満足のいく出来ではなかったが、師匠は微笑みながら
「なんていうか、今のほうがいい音が出せているわよ」
と、慰めとは異なる誉め言葉を送ってくれたのだ。
いつだってそうだが、自分がいいと感じることは、得てして自己満足の場合が多い。それはそれで悪いことではないが、音楽や美術など芸術分野の作品を他人に鑑賞してもらう際には、自己満足ほど寒い勘違いもないわけで。
そして、独りよがりと他人の評価が一致する「ラッキー」が続けばいいが、往々にしてそんな奇跡は起こらない。だからこそ、自分の中ではベストな演奏を披露したとて、コンクールで入賞できなかったり聴衆から高評価を得られなかったりするのだ。
その反面、自己評価は低いのに他者評価が高いことがある。しかも今回は、わたしのような拙い素人ではなく、耳の肥えたプロが言うのだから間違いない。雨降って地固まる・・ではないが、前腕が筋肉痛だからこそ得られた相乗効果とでもいおうか。
さらに師匠は、「あなたの左手の問題は、今すぐどうこうなるものではないから、じっくり付き合っていく必要がある。だからこそ、方向性が正しければそれでいいと思うのよ」と諭した後に、雑談がてら過去の話を聞かせてくれたのだ。
かつて師匠は、日本を代表するオペラ団体・二期会のピアニストを務めていたが、その時の練習風景について、
「オペラ歌手たちは、練習で手を抜く・・というか流すことってないのよ。いつでも全力で歌いきるの。なんでかっていうと、練習以上の本番はないわけで、むしろ本番で練習以上のことをしないように、練習の段階で全力を出し切る練習をするのよね」
と教えてくれた。続けて、
「本番って、ついつい余計なことをしちゃうじゃない?いつも以上に張り切ったり、本番の雰囲気に酔いしれたり。そういうことをしないように、普段から全力で歌うことで、本番も練習と同じように歌うことができるんだって」
という、オペラ歌手の心理について語ってくれたのだ——あぁ、わかる。人前だとつい張り切ってカッコつけちゃって、その結果、自爆するんだよな。
この瞬間、わたしはとある出来事を思い出した。それは昨日、高輪ゲートウェイ駅にあるストリートピアノ(ステーションピアノ?)で、苦手なモーツァルトを張り切って弾いた・・という事実だった。
駅構内ということもあり、行き交う電車の騒音に負けぬよう、いつも以上に力強く鍵盤を叩きつけた。自分でもピアノの音がよく聞こえない状態で、それでも目を輝かせて聞いてくれている友人のために、全身全霊の力を込めて精一杯モーツァルトを弾き切ったのである——まるで、情熱的なベートーヴェンのように。
(前腕の筋肉痛の原因は、アレだ・・・)
本番のステージで、オペラ歌手が張り切ってノリノリで歌ってしまうかのように、ド素人のわたしも張り切ってガンガン弾いてしまたのだ。わたし自身、そんなつもりはなかったのだが、この筋肉痛は明らかにあの時の後遺症である。
こうして、無駄かつ無意味に間違った力の使い方をしたことで、筋肉痛という仕打ちを受ける羽目となったわたしは、己の未熟さを改めて嚙みしめるのであった。
(友人の前で調子に乗ってるようじゃ、まだまだだな・・)
それにしても、ニンゲンの身体というのは正直なものである。誤った筋肉の使い方をすれば、こうしてキチンと復讐してくるのだから、ある意味わかりやすくて便利。
今後は、本番でカッコつけたり調子に乗ったりしないしないよう、普段から全力で練習する・・ということを誓おう。
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