随分と長い年月を生きてきたが、それでもまだ俄かに信じられないような事実を突きつけられたり、「なぜこんな簡単なことに気付かなかったのか」と唖然としたり、それ故に人間が持つ可能性の奥深さに驚愕させられたりと、小さな驚きと憤りを繰り返す人生を送っているわたし。
だが、今日の驚きは本当に信じられないレベルの変化であったため、こんな単純なことでこれほど圧倒的な改善が見られたことに、あれから半日以上が過ぎたにもかかわらず、いまだに疑心暗鬼なのである。
その変化とは——左手の薬指すなわち「4の指」が、自らの力で生き生きと鍵盤の上を駆け抜けられるようになったことだ。
*
「もうそろそろ、4の指をどうにかしてあげようかしらねぇ」
そう言いながら、師匠は満を持して重い腰を上げた。そう、わたしの左手の薬指はいつまで経っても死んだフリを続けており、中指と小指に両肩を支えてもらうことで、薬指自身もちゃんと動いているかのように見せかけているのだ。
そんな、”いつまでも家族に迷惑をかけ続ける、モンスター・シスター略してモンシス”に、ついに鉄槌が下される時が訪れた。とはいえ、これまでもモンシスを叩き起こすための練習はしてきたはずだが、ここへきて具体的に姉を変える訓練があるとは——っていうか、なぜ最初からそれを教えてくれなかったのだろう。
そんな師匠が取り出したるは、青色の横長の教本だった。ドイツ語で書かれたタイトルを訳すと「つかむこと、そして理解すること——打鍵文化へのひとつの道」という、なんとも西洋チックな洒落た言葉が並べられている。
著者はアンナ・ヒルツェル=ランゲンハーンという人物だが、発売当時からきっと「指のドクターX」とか「指のブラック・ジャック」などと崇められていたことだろう。少なくとも令和の現代において、このわたしがそう思っているのだから間違いない。
そんな「ドクター・ランゲンハーン」が残した、渾身の治療法とは・・・

(・・・え?)

(・・・マジで??)

(・・・・・)
このように、たった一小節のよく分からない音符の羅列だった。
こんなもので、4の指が強化されるとは到底信じられない。とはいえ、師匠の言葉に逆らうなど言語道断であるため、わたしは渋々・・いや、素直に従うことにしたのである。
ところが、この”大したことのない片手ずつの音形”は、確かに4の指を鍛えるのに最適な状態で記されていた。
さらに不思議なのは、4の指が常に鍵盤を押さえ続けていることだ。一般的には「指を強化する」といったら、その指を集中的に動かすイメージなのだが、ドクター・ランゲンハーンはその真逆のことで矯正しようとしていた。
(前略)この4の指も弾くより「抵抗」させた方がはるかに早く強まります。したがって5の指と3の指を交互にあるいは一緒に弾いて、4の指がそれに抵抗して絶対に動かないようにすることが強化に役立ちます。(本文より抜粋)
要するに、薬指で鍵盤を抑えつつそれ以外の指を動かすことで、ついつい彼らに引っ張られてしまう姉に「抵抗させること」を覚えさせて、これまで仮死状態だったモンシスを叩き起こし自立させる・・という作戦なのだ。
(動かさないほうが、より動くようになる——そんなバカな話があるのか?!)
完全に疑いの眼で楽譜を見つめるわたしだったが、とりあえず何度かドクターの指示通りに鍵盤を押さえてみた。その後、40番ツェルニーの7曲目の後半を弾いてみたところ——嘘だ、こんなの絶対に嘘だ!!!
仮死状態だった薬指が、明らかに己の意志で鍵盤を押し込んでいるではないか。それはまるで、馬が後ろ脚で地面を蹴るかのように、左手の4の指でしっかりと鍵盤を弾(はじ)いているのだ。
(信じられない・・何年、いや何十年やっても直らなかったことが、こんな一瞬で変わってしまうなんて)
しかもあんな単純な音形でありながら、加えて、たった一小節しかないにもかかわらず、それを何度か繰り返しただけで「引きこもりのモンスター・シスターが、普通の女子高生になりました」だなんて、教育委員会どころか文部科学省が黙ってはいないだろう。
それでも、これは現実的に起きている奇跡・・というか事実である。とはいえ、わたしにとっては超奇跡であるのは間違いないが、当のドクター・ランゲンハーンにとっては「当たり前の結果」なのかもしれない。
なんせ、彼女の決め台詞は「私、失敗しないので」なのだから——。
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仮死状態だった4の指がまさかの復活劇を遂げたわけで、長く生きていればこんな嬉しい偶然にぶつかることもあるのだ。だからこそ、毎日の小さな積み重ねを怠らず、いつか起きるかもしれない奇跡を期待して、細く長く生きていこうじゃないか。
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