今日は、肩甲骨から指が生えた記念日

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指導をする側もされる側も、それなりの心意気と真摯な態度で臨んだにせよ、思うような結果に結びつけることは難しい。

無論、有名な指導者だから全員を成長させられるわけではない。どちらかというと、受け入れる側の状態やレベルによって、その理解度は変わるわけで。

 

また、同じ言葉や表現であっても、受け入れる側の経験値によっては「神の啓示」だったり「謎の呪文」だったりするわけで、ある種のタイミングが必要となるわけだ。

そして呪文が啓示に変わるまでには、それこそ数日かもしれないし数年かかるかもしれない。一生変わらないかもしれないし、こればかりはその人次第だろう。

 

だが、己の中でしっくりくる指導を受けたとき、ヒトは成長を実感し喜びと感動に震えるのである。

 

 

(どうにかして、親指の愚行を直さなければ・・・)

ブラジリアン柔術・・という指にとって最悪の負担を強いるスポーツを続けながらも、学生時代以来遠ざかっていたピアノを再会したわたしは、浮かぬ顔で細々と練習を続けていた。

しかし、指の劣化もさることながら脳の劣化も甚だしい中年にとって、思うようにピアノが弾けないジレンマはストレスでしかなかった。それでも、一日でも練習を怠ればその倍・・いや三倍の苦労を強いられるわけで、そんな恐怖もあって毎日鍵盤と向かい合っているのだ。

 

そんな最中(さなか)に、SNSでとある言葉と出会った。

「ピアノに依存しないで、自分に軸がある感じで弾いてみて。ある意味、一番親しい他人くらいに思って、自分と同一化させているとうまくいかないから」

というような内容だった。この言葉を見た(聞いた)瞬間に、わたしは脳みそを鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。

(わかる、まさにその通りだ——)

ついさっきまで「自分自分!」で鍵盤を叩いていたわたしは、ずっと何かに引っかかっていた。入り込み過ぎても大義を見失うし、かといって離れすぎては再現できない。この微妙な距離感をどう捉えればいいのだろうか。

 

その答えこそが、「一番親しい他人」という言葉だった。すぐさま、発言主のサイトを訪れると、「極上の演奏スキルを手に入れる‼ フランツ・リストが伝えたかったピアノの弾き方」というWeb講座を購入した。

講師の名は黒木洋平氏。ピアニストであり研究家であり指導者であり、ユーチューバーでもある同氏は、ドイツへの留学経験をもとにクラシックの本場である西洋の人々が、どのように演奏をしているのかを分析・体系化したのだ。

実のところ、彼のキャリアや肩書きに興味はなかったが、その言葉には惹かれるものがあった。なんせWeb講座の紹介文には、「親指の力が抜けない人にオススメ」と書かれたあったわけで・・。

 

13,000円ほどのWeb講座は、決して安い買い物ではない。だが、そこに"親指の愚行を改めるヒント"があるとしたら、これは金額の問題ではない。

仮になんのヒントも得られなかったとしても、少なくとも今のわたしにはない技術や奏法を知ることができるわけで、知らない世界に触れられる価値はある。

——その結果、わたしは新たな世界というか「小学校の頃」へとタイムスリップしたのである。

 

3年前にピアノを再開してから今日まで、椅子の高さを最大限に上げていたわたしは、動画の視聴を終えるとすぐさま、ハンドルを回して椅子を下げた。

——そうだ、わたしは低い椅子で弾くのが好きだったじゃないか。

その理由は、足の裏で踏ん張る感じ・・というか足の裏から指を動かす感じを大切にしていたからだ。しかし、子どものころ以来に弾いたピアノは、肥満体が乱れた行進をするかのような、ドタバタとしたなんとも聞き苦しい演奏でしかなかった。

 

そこでわたしは考えた。「上から吊るすように弾けば、音も軽くなるかもしれない」と。

 

こうしてわたしは、椅子を最大限に上げて弾くようにしたのだ。不安定な下半身と足の裏に違和感を覚えながらも、「このガサツな音を殺すためには、操り人形のように上から吊るして弾くしかない」と言い聞かせて、弾きにくさを無視して練習を続けたのである。

——そんな誤った呪縛から、今日、解き放たれたのだ。

 

講座の内容に「椅子の高さ云々」は触れられていない。だが、肩甲骨やハムストリングスといった、体の背面を使って打鍵する・・という行為を突き詰めていくと、自ずと椅子の高さを下げることとなったのだ。

そして改めて、"わたしの指が肩甲骨から生えている感覚"を得たのである。

(動かさなければならないのは、指じゃなかったのか・・・)

なんとも不思議なものである。わたしの指がわたしの意思で動いていないのだから——。脳みそが勝手に動かしているような、そしてその指示は肩甲骨から発信されているような、エヴァンゲリオン的な感覚だった。

 

指の根っこが、肩甲骨にある——。この表現がしっくりくるほど、今までの弾き方を根底から覆すメソッドに、わたしはとてつもない衝撃を受けた。そしてこれは、小学生のころの弾き方に近かった。

人間というのは年を重ねるにつれて、良くも悪くも様々な武器や鎧を身に着けるもの。そしていつしか、武装状態が生身であると勘違いをする。

だが生身の人間は、もっと自由でもっと創造的な「余裕」があるのだ。ガチガチに固めた状態では何も生まれないかもしれないが、あそびがあるからこそまだ見ぬ世界を楽しむことができるのだ。

 

 

ピアノに限った話ではないが、今のわたしだからピンとくる内容だったことは否めない。もしも昨日だったら、このような結果に至らなかったかもしれないわけで。

そして、言葉は同じでも受け取る側の状態や経験、はたまたレベルや探求心によっては、それが呪文にもなるし啓示にもなるということを痛感させられた。

 

・・ちなみに、わたしのピアノは完全に壊れた。もはや何も弾けなくなったわけだが、これでいい。ここから作り上げていけばいいのだから。

 

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