他人が羨む豊満な筋肉による弊害

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感覚的なものというのは、分かったようで分かっていない場合がある。正確には、覚えたつもり・・あるいは理解したつもりが、そうじゃない場合がある。瞬間的には「わかった!」と小躍りするも、しばらくしてから改めてトライすると、なぜか再現できなかったりするわけで。

まぁ、その繰り返しでいつしか習得できるのが「感覚的なスキル」というものなのかもしれないが、一度乗ることのできた自転車から転げ落ちるのは、やはりショックである。

 

 

帰国後、初の「ピアノの先生の先生によるレッスン」に向かったわたしは、2週間ほどピアノに触れていなかったが「なんとなくできる」という自信に満ち溢れていた。アメリカ滞在中も、持参した楽譜を見ながらテーブルの上で指や腕の使い方を確認していたし、YouTubeでピアニストが弾く演奏に耳を傾けながら、"良い音"というものを脳に焼き付けていたし、実際に鍵盤を叩かなくてもイメージは完璧だったからだ。

そして帰国後、自宅で何度か練習をした後に"先生の先生のレッスン"を受けたのであった。

 

「・・どこか傷めてるの?」

これが、弾き終えての先生の第一声だった。たしかに手首を傷めているが、打鍵に影響するほどのものではない。ましてやテーピングで固定してあるので、痛みを感じることはないわけで。それでも先生がそう尋ねてきたということは、音に異変が起きているからなのだろう。

さらに続けて、

「音にムラがあるというか、キレイに弾こうとするあまりに心がそこにないのよね」

と、核心を突く感想を述べられたのだ。

 

わたしが"先生の先生"にピアノを習うきっかけとなったのは、ピアノとしてあるべき音を出せるようになるため・・という目的からだった。ただ単に曲が弾けるとか課題曲をクリアできるとか、そういう表面的なことではなく、もっと本質的な部分を学び習得するために、わざわざ茨の道を歩み始めたのだ。

そして、渡米前になんとなく掴みかけた感覚を、どうやらわたしはゴッソリと落としてしまった模様。たしかに、自分自身でも「本当にこの音が正しいのか」という疑問に、自信を持って頷くことはできなかった。それでも、およそこんな感じだったはず・・という感覚を頼りに、イメージだけはキープしてきたつもりだったのだ。

 

しかし、控え目に指摘してくれた言葉の裏には、大きな失望を感じざるをえなかった。彼女が最も大切にしている「音の響き」「下半身からエネルギーを伝えること」「指は空洞であること」などが、まったく再現できていなかったからだ。

 

それを補うかのように、「余分なことをやっているような、その立派な筋肉が邪魔をしているような感じがする」という趣旨の指摘もあった。そしてわたしは、その表現に妙に得心が行ったのである。

筋肉がある・・ということは、すなわち「使おうとしなくても、勝手に筋肉を使ってしまう」という行為につながる。極端なイメージとしては、箸でつまんで食べれば十分な豆を、わざわざ野球バットを使って食べているようなものだ。

——要するに、もっとそぎ落とさなければならないのである。

 

ないものを身に着けるのは、なんとなく実感も湧くし習得度合いが分かりやすい。だが、あるものをそぎ落とすのは想像以上に困難を強いられる。体重がまさにこれだろう。増やすのは簡単だが、落とすのに苦労するというか・・。

そして、勝手に身についた分厚い筋肉を落とすことは難しいわけで、ならば「使わない」という選択肢をとらなければならないわたしは、これまた自分との孤独な戦いを強いられるのであった。

他人に問うたところで答えは出ない。なんせ感覚的な問題であり、自分以外に解決できる者はいないのだから——。

 

しかしながら、いつかその感覚に手が届いたとき、それはわたしにとって大きな自信となり、また一つ新たな扉を開けることとなるだろう。だからこそ、もっと素直に正直に、もっとシンプルに繊細に、自分の体をコントロールしなければならないのである。

 

 

ちなみに先生はこうも言っていた。

「たくさん練習して感覚を掴んでね・・と、これまでの生徒さんたちには言ってきたけれど、どうやらあなたには逆のことを言わなければならないようね。つまり、あまりたくさん練習はしないでちょうだい」

まさかの「練習するな宣言」を受けて、わたしはやや面食らった。だがきっと、やればやるほど、わたしの場合は筋トレになってしまうからなのだろう。

 

——などと考えながらも、気づくといつの間にか夜は明けていた。これがきっと「やっちゃいけないこと」なんだろうな・・と、終わって気付く愚かなわたしなのであった。

 

Illustrated by 希鳳

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